広島陸軍病院原爆慰霊碑

  中区基町の太田川土手上に建立されている「広島陸軍病院原爆慰霊碑」です。
戦前、広島城を中心とする基町一帯は、陸軍の施設が集まる一大軍事拠点(下段に配置図を掲載)で、第1陸軍病院と第2陸軍病院もその中に配置されていました。
この慰霊碑が建立されている現在地は、第2陸軍病院の跡地の一部でした。
合祀名碑に「広島陸軍病院原爆死没者合祀者」として陸軍病院職員738人の名前が刻まれています。このほか、収容患者約1,200人が犠牲となったとも聞きます。
この「廣島陸軍原爆慰靈碑」は、1956(昭和31)年8月6日廣島陸軍病院関係有志の建立で、(当時の)病院の被爆した庭石を積み重ねた上に、病院の門柱を碑石としているそうです。
資料によると、この広島陸軍病院慰霊碑の前に保存されている門柱は、広島第二陸軍病院裏門の門柱で、爆心地から≒1,110mとありました。
昭和20(1945)年8月6日広島が人類最初の原子爆弾により、一瞬にして二十数万の尊い犠牲者を生ずるに至った。爆心地に極めて近かった元広島陸軍病院に勤務の職員以下及び入院中の患者等被爆死された方々の御霊を永遠にお祈りするため、同病院関係の生存者で職員その他有志並びに遺族賛助者等により、広島陸軍病院原爆慰霊会を結成し昭和30(1955)年8月6日原爆十周年を記念しこの病院跡に当時の表門石柱を碑として台石は全部同病院の庭石等を用い、ここに「広島陸軍病院原爆慰霊碑」を建立した。
ついで昭和50(1975)年8月6日三十周年記念として地名碑の建立並びに同病院の遺跡(明治以来の記念碑及ぶ被爆当時の裏門石柱など)保存と併せて敷地の整備をも計画し昭和52(1977)年8月6日完功するに至った。
   御霊よ どうぞ 安らかに お眠りください。 合掌
昭和52(1977)年8月6日 誌之  広島陸軍病院原爆慰霊会
広島衛戍(えいじゅ)病院
当初、広島鎮台病院として設置され、陸軍予備病院、広島衛戍病院、広島陸軍病院と名前を変えました。
太平洋戦争中は、基町地区だけで、4000床以上の収容力があったそうです。
※衛戍≒軍隊が常時駐屯して警備すること。 衛戍病院≒旧陸軍で衛戍地に設けていた病院。 
2001年撮影してこの頁を編集しました。2003年撮影して画像を追加し頁を更新しました。
2015年久しぶりに撮影しましたので、頁の構成を見直し、再編集しました。
15.05.14.再編集    01.04.10裕・編集

01.04.05.撮影
広島市中区基町22 太田川土手

03.06.17.撮影

03.06.17.撮影
(1904・1905年)日露之役(での病院と帰還兵関係)碑 と 広島陸軍病院原爆慰霊碑

15.03.15.撮影
(慰霊碑の方から振り返って来ました)

15.03.15.撮影
(慰霊碑を正面からみました)

15.03.15.撮影
(慰霊碑を後側からみました)

15.03.15.撮影

15.03.15.原爆被災説明板を撮影
原爆被災説明板の裏側に貼付けられた軍用施設配置図(2003年当時はありませんでした)



「原爆関連慰霊碑等巡り」編
「平和祈念碑等建立地一覧」編


「広島城附近」編



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(参考頁)基町地区地図


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