広島搬送電気通信工事局員原爆慰霊碑

  南区比治山本町のNTTDATA比治山ビルに建立されている「広島搬送電気通信工事局員原爆慰霊碑」です。
被爆当時、広島搬送電気通信工事局は、広島市役所南隣り(現在・国泰寺町1丁目。爆心地から≒1,000m)にあり、52人が犠牲となったそうです。
この碑が建立された当時(1950年)、役所内に慰霊碑を建てることは好ましくないという上層部の意向で句碑となったそうです。建物の建て替えに伴い、1987(昭和62)年現在地に移設されました。
 一灯









 
  この碑は、原爆直後に広島搬送電気通信工事局員五十二名の慰霊の為に、当時の局長中井秀基氏の自筆の句を刻んだもので、原子爆弾で亡くなられた友に贈る思慕の碑であり平和への祈りです。
「夜が来ると、暗い屋上に見を横たえては、仏の数を数えるようになった。その仏の行方を追うかのように 星が小さくまたたいて数が増えていく空の下で、それから、銀の星が嬉しい物の一つとなった。」多くの人々の平和のために、この碑の祈りを永く語りつづけたい。
     広島搬送支社関係職員慰霊碑 設置の由来            2015(平成27)年8月
1945(昭和20)年8月6日午前8時15分広島市への原爆投下により当時、広島市国泰寺町にあった「広島逓信局広島搬送電気通信工事局」の木造建物は一瞬のうちに倒壊し、通信機械設備も破壊されました。この時刻当日の勤務者と宿直明けの職員が朝礼も終わりそれぞれの持ち場へ行く途中の人、仕事に取り掛かっていた人や帰宅準備中の人のうち36名の方々が一瞬のうちに犠牲となり、その後原爆の後遺症等により亡くなられ、合わせて52名の尊い命を亡くしました。
広島搬送電気通信工事局は、「長距離通信施設の一元的管理」と「設備・回線の保守統制の推進」のため電信試験を併設して誕生し、広島電話中継所(広島搬送電気通信工事局回線課中継係)と同一校内に1945(昭和20)年1月新発足しました。
当時中井秀基局長をはじめ117名の職員が回線保守に従事していました。
この慰霊碑は、1950(昭和25)年1月この地(比治山麓の旧電信隊跡)に広島統制電話中継所と広島電気通信搬送工事局から広島搬送管理所、広島搬送通信部と組織の変遷をして、両組織とも市内基町へ移転した後、比治山電電ビル新築工事に併せて現在地に安置されました。
2002年にはじめて訪ねましたが、車でここから南へすぐの国道2号線はしばしば通るのですが、久しぶりに立ち寄り頭を垂れ、撮影しましたのでこの頁を編集しました。
碑裏をみて昭和25(1950)年は解かりましたが月日は不鮮明で解かりつらく1月30日と読んだのですが不確かです。
2015年久しぶりに訪ねました。
被爆70年のことし「広島搬送支社関係職員慰霊碑 設置の由来」板が碑の前に設置されていました。
掲載画像を見直し、今年撮影した画像と2010年撮影した画像とともに、この頁を再編集しました。
15.09.18.再編集       02.11.05裕・編集

02.10.25..撮影
広島市南区比治山本町11-20   (NTTDATA比治山ビル) 

02.10.25..撮影

07.03.14.撮影

07.03.14.撮影
昭和25(1950)年1月30日建之 「つたえようひろげよう平和の願い」  2002(平成14)年8月5日建立

10.06.03..撮影

10.06.03..撮影

10.06.03..撮影

10.06.03..撮影
「つたえようひろげよう平和の願い」碑           「広島搬送電気通信工事局員原爆慰霊碑」

10.06.03..撮影
「広島ピース号第20回記念植樹:平和を創り育てる!」2009年4月植樹   「広島搬送電気通信工事局員原爆慰霊碑」

15.09.15..撮影

15.09.15..撮影
「広島搬送支社関係職員慰霊碑 設置の由来」板2015年8月     「広島搬送電気通信工事局員原爆慰霊碑」

15.09.15..撮影

15.09.15..撮影

15.09.15..撮影

15.09.15..撮影



「原爆関連慰霊碑等巡り」編
「平和祈念碑等建立地一覧」編



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