せいじゅうじ
清住寺

  中区本川町に建てられている「智水山深廣院 清住寺」です。
清住寺は、浄土宗のお寺です。
知新集
によると
『元和5(1619)年の旧記には広瀬鍛冶屋町にあったとあります。
開山は心譽貞林(周防国岩国の人で中村氏)で、往古は(毛利氏の旧居城があった)高田郡吉田(現:安芸高田市)に建立されていましたが、天正18(1590)年毛利輝元が広島城を築いた時に広島に移ってきたと妙慶院記録にあります。』
と記述しています。
1876(明治9)年本川小学校(前身の第七番小学校本川学校分教場)が境内に置かれ8年間(現在の本川小学校の敷地に木造校舎が出来るまで)教育の場になったそうです。
現在の本堂は1959(昭和34)年の再建されたそうです。
1945(昭和20)年8月6日原爆でご住職はじめご家族五人は即死だったそうです。
お寺がある旧左官町は多くの方々が亡くなり境内で毎日のように火葬がおこなわれたそうです。
  
爆心地より≒530m   (被爆当時町名は鷹匠町でした)

07.04.12.撮影
山号額(第21世筆) 

14.06.12.撮影
「濫觴(由来)」碑
  2009年8月6日建立「濫觴」碑を読んで、
   (知新集など上記記述以外の一部記述を取り上げました)
1709(宝永6)年正月22日火災で本堂庫裡ともに全焼しましたが翌(宝永7)年第6世意譽は檀家らと図って本堂を再建しました。
1908(明治41)年には本堂その他を完成させ、1945(昭和290)年8月6日原爆の惨禍に遭うまでは広島有数の規模を誇る仏閣でした。
ご本尊は、原爆の厄を逃れた平安中期の恵心僧都(942-1017)作と伝わる阿弥陀如来座像です。
(らんしょう)
濫觴:
『揚子江のような大河も源は觴(さかずき)を濫(うか)べるほどの細流にすぎないという「荀子(じゅんし:前298-前238頃)」子道にみえる孔子(前551-前479頃)の言葉から』
物事の起こり。始まり。起源。
2004年被爆したグミが残っていると知り訪ねました。墓苑には、被爆した墓石、石仏がありました。
お寺由来などについては資料を参考にしてこの頁を編集しました。
2004年に編集した頁でその後少しばかり追記していましたが、2014年(本川小学校を訪ねた後)久しぶりに訪ねたここ清住寺で、被爆したグミが元気であろうか、以前の頁でお寺を紹介する画像の拙さをカバーできる撮影場所がないかなどと考えながら訪ねました。
被爆した墓石などはこの頁から分離して頁を編集することにし、この頁を再編集しました。
 14.07.08再編集    04.08.16裕・編集

04.08.07.撮影
広島市中区本川町2-5-13

04.08.07.撮影
被爆無縁墓、お地蔵さまが集められ祀られています

05.12.17.撮影
本堂

14.06.12.撮影
(境内が整備されたようです)

14.06.12.撮影

14.06.12.撮影
2007年にはなかった延命地蔵堂が墓苑の方に建っていました

04.08.07.撮影

06.03.17.撮影
被爆したグミ 枯死した被爆サクラ



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