(安芸府中) ではりじょう あと
出張城跡
  安芸郡府中町宮の町に過って築かれていた「(安芸府中)出張城跡」です。
出張城跡は、室町時代中頃の応永年間(1394-1428)に安芸守護武田氏に従って下総国(現・千葉県)から西下してきた白井加賀守胤時(たねとき)が初代城主となった城跡で、以後170年間に渡って府中を中心に領内を治めたと伝えられています。
中世の史料では、府城、国府城、芸府城などと記され、(現在の)宮の町一丁目と宮の町三丁目の境の古山陽道沿いを出張市と呼んでいたことから、出張城の呼称は、近世の字名からとったものと思われます。
出張城は、標高34.5mの小高い丘にありました。本丸を中心として数段の郭(くるわ)を設けていますが、現在では宅地や畑となって往時の面影はちかめません。
城主の白井氏ははじめ守護・武田氏に属していました。そのため出張城は一族による仁保城(広島市・黄金山)とともに広島湾頭において銀山城の防禦線の役割を果たしていました。ところが安芸武田氏の勢力が衰え、周防国の大名・大内氏が影響を及ぼすようになると大永年間末(1527年)には大内氏に従属するようになり、佐東郡の牛田・山本などに領地をあたえられ、(地理的な関係から)水軍を重視し、仁保島城を中心に、その海域を通過する商船から通行料を徴収していたと考えられています。

出張城跡位置図 (説明板の地図を使用しています)
しかし、天文20年代以後(1551年〜)は次第に毛利氏に領地を奪われ、天文24(1555)年厳島の戦いでは、陶氏方に属して毛利元就(1497-1571)に抵抗しましたが敗戦、後に毛利氏に帰順して小早川隆景(毛利元就の三男:1533-1597)の傘下に入ったと伝えられています。
大正時代(1912-1926)には、馬場、門の跡が残っていましたが、開墾など(古城具、墓石、人骨等が掘り起こされたそうです)により、現在、城跡は本丸の跡を中心に数段地が残っているだけです。
*上記資料は、府中町教育委員会設置の説明板と府中町の他の資料を参考にしました。
以前府中町をぶらり散歩した時も下からはみてはいましたが、撮影していませんでしたので、(低い丘ですので)行ってみようと持ったのです。(府中)薬師堂をお参りし、手押しポンプが残っていた家の方に聞くと、今は昔に繋がるものは残っていませんがと云われましたが、上がってみたのです。
城郭跡かなと思う石積みがわずかに見えましたが上がる道がわかりませんでしたので下から撮影しまた。また、開けたところから、支城といわれる仁保島城方向などをみました。
12.04.05裕・記編集

12.03.03.撮影
広島県安芸郡府中町宮の町3-6

12.03.03.撮影

12.03.03.撮影
(城郭跡と思われる石積がわずかですがみえました)

12.03.03.撮影

12.03.31.撮影

12.03.31.撮影
仮設の手摺沿いにのぼっていくと 教育委員会設置の説明板がありましたがその上は未整備でした

12.03.03.撮影

12.03.03.撮影

12.03.31.撮影
尾首観音堂から出張城をみました



「古墳遺跡遺構など」編


「(安芸郡)府中町」編



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