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安佐北区可部東の観音堂(迎接院曼陀羅寺)の手前に建立されている「原爆被爆者慰霊碑」です。
※2011年訪ねた時は木碑の頭部から朽ちかかっていました。
※2015年訪ねた時、(2014年8月20日の土砂災害に遭ったのか)新しい木碑に建替えられていました。
※2017年11月寺山公園に移設されました。 |
(正面)原爆被爆者慰霊碑 (裏面・側面:文字なし) |
*2015年に見た時 (正面)原爆被爆者慰霊碑 (裏面:資材提供小田工務店) |
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昭和20(1945)年8月6日8時15分米軍原子爆弾を投下、(市内から離れた)可部の町には9時頃から全身黒く汚れ、火傷で火ぶくれとなり、血を流した被爆者が入り始め、午後2に頃からは重症の兵隊や市民がトラックや荷車で運ばれてきました。避難者は9日の昼過ぎまでつづいたので、被爆者を収容する救護所が作られました。亡くなった人たちの(多くの)遺体は、荷車にのせ根の谷川河原に運び、遺体は薪の上に重ねられ毎回30体ずつ火葬にふされたそうです。 |
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遺体、遺骨の埋葬整理もままならぬうちの、(9月17日広島通過の)枕崎台風による根の谷川の増水で、300名くらいの方々の遺体、遺骨が流失したそうです。
(建立年代は不明だそうですが)昭和30年代になって、その方々の慰霊ということで、当時の可部町長であった山田保氏が建立されたのがこの「原爆被害者慰霊碑」だそうです。 |
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下記は、広島原爆戦災誌に掲載ある、可部町(の可部地区)だけの収容所です
(収容所名) |
(収容者数) |
(死体の埋火葬数) |
埋火葬場所 |
収容所閉鎖月日 |
超円寺 |
100 |
20 |
中島火葬場 |
昭和20(1945)年9月下旬 |
勝円寺 |
128 |
87 |
根の谷川河原 |
昭和20(1945)年11月初旬 |
願船坊 |
80 |
35 |
可部町火葬場 |
昭和20(1945)年11月初旬 |
可部国民学校 |
100 |
26 |
根の谷川河原 |
昭和20(1945)年11月初旬 |
品窮寺 |
108 |
32 |
根の谷川河原 |
昭和20(1945)年11月初旬 |
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上原八幡神社への石段下に観音堂があり、そこだなと思った時に道端に建っている、朽ちかかりつつある木柱に目が行きました。「原爆被爆者慰霊碑」と墨書きがありましたので、側面裏面に建立年月日、建立者が記述してないかみましたが、何もありませんでしたので、この碑の由来がわかるかもと、資料をみましたが、この慰霊碑に関する記述は(わたしには)さがせませんでした。
可部地区のボランティアガイドをされているE氏に由来が分かれば教えて下さいとお願いしていました。3月の可部地区交流ウォークの時、可笑屋でお会いした時、調べてわかったこと(上記のこと)を教えていただきましたので、この頁を編集しました。
原爆によって引き起こされた悲しい出来事のほんの一部ではあるのでしょうが、この木柱が朽ち果てていく時、この木柱碑に込められた由来も忘れられていくのでしょうか。 |
被爆70年の今(2015)年10月訪ねたのです。
この慰霊碑の前に立ち寄った上原耳観音堂が2014年8月の土砂災害で上屋が壊れ、耳観音様がむき出しになっていましたので、この慰霊碑は大丈夫だろうかと心配になりました。 |
手前に来ると土砂災害仮復旧用の土嚢が積まれていましたが、後ろから見た慰霊碑健在だったように見えました。
近づくと以前は(頭部から)朽ちかかりつつあった木柱が新しくなっていました。
そして碑の前にあった水をためる甕が壊れていました。それらを考えると、ここ慰霊碑も土砂に押し流され被害に遭ったのではと思うようになってきました。だから新しい木碑に建替えられることになったのではと?
頭を垂れた後、慰霊碑の処から下に降りているとき、以前あったお宅が土砂災害で壊れたのでしょう、更地になっていました。 |
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2017年11月(10日)中國新聞やTVローカルニュースで次のようなことを知りました。
『安佐北区可部町上原にあった「可部地区原爆被爆者慰霊碑」が可部東の寺山公園に移され、11月9日除幕式が行われました。従来の木柱に加えて石碑も建てました。
その石碑は高さ1.3m、幅1.4m、奥行き1.3m。被爆死し、眼下の河川敷で焼かれた百数十人の冥福を祈り、「未来永劫風化されることなく、平和でありつづけることを願っています」と刻んだ金属板を取り付けています。土台には河原の石を敷き、木柱は隣にっ建てています。』というような内容でした、新しくなったところをまだ撮影していませんが、追記しました。
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17.11.18.更新 10.03.23.裕・記編集 |