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安佐北区可部東の寺山公園に建立されている「原爆被爆者慰霊碑」です。
※2017年11月寺山公園に木柱の「原爆被爆者慰霊碑」が移設されました。(現在朽ちて?撤去されています)
※同時に石碑の「原爆被爆者慰霊碑」が新築、建立されました。 |
(正面) |
原爆被爆者慰霊碑
この慰霊碑は 昭和20年8月6日 世界初の原子爆弾に
よって 命の絶えた人たちの冥福を祈って建立されました |
-説明板- |
可部の地で息絶えた罹災者、法要の声一つ無差別に根の谷川の河川敷で、この地の人たちによって荼毘に臥された百数十名の名の知れぬ人、可部町の若き少年少女が学徒動員として、また市内の職場で原子爆弾の犠牲となった人。
こうした方々の冥福と慰霊を偲び、根の谷川の見渡せるこの地で未来永劫風化されることなく、平和でありつづけることを願っています。 |
-台座部- |
広島市原爆被爆者協議会可部支部
広島可部ライオンズクラブ〔石碑寄贈〕
寺山公園をつくろう会〔管理を引き継ぐ会〕
平成29(2017)年11月建立 |
(裏面) |
〔なし〕 |
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2017年11月10日
中國新聞に「可部の原爆慰霊碑移設 管理継ぐ住民ら除幕式」という記事が掲載されました。
『安佐北区可部町上原の山中にあった「可部地区原爆被爆者慰霊碑」が可部東の寺山公園に移され、11月9日約60人が参列して除幕式がありました。
従来の木柱に加えて石碑を建てた。石碑は、高さ1.3m、幅1.4m、奥行き1.3m。
石碑には(上記説明を刻んだ)金属板を取り付け、土台には河原の石を敷き、木柱は隣に立てた。
移設は碑を管理してきた市原爆被爆者協議会可部支部が会員の高齢化によって2017年3月で活動を休止したのが契機となった。支部長だった明賀千鶴子(83)さんは「公園を訪れる人の目に留まり、遠のきつつある原爆の悲惨さを後世へ伝える礎になる」と期待した』というような記事でした。
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2021年5月2日訪ねたときには、
移設されたという木製(木柱)の慰霊碑はありませんでした。(朽ちたので撤去されたと思いましたが、朽ち果てるまで建てて置いていただきたかったと個人的には思いました) |
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下記は、広島原爆戦災誌に掲載ある、可部町(の可部地区)だけの収容所です
(収容所名) |
(収容者数) |
(死体の埋火葬数) |
埋火葬場所 |
収容所閉鎖月日 |
超円寺 |
100 |
20 |
中島火葬場 |
昭和20(1945)年9月下旬 |
勝円寺 |
128 |
87 |
根の谷川河原 |
昭和20(1945)年11月初旬 |
願船坊 |
80 |
35 |
可部町火葬場 |
昭和20(1945)年11月初旬 |
可部国民学校 |
100 |
26 |
根の谷川河原 |
昭和20(1945)年11月初旬 |
品窮寺 |
108 |
32 |
根の谷川河原 |
昭和20(1945)年11月初旬 |
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元々あった処を被爆70年の2015年10月訪ねたのです。
広島土砂災害仮復旧用の土嚢が積まれていましたが、後ろから見た慰霊碑健在だったように見えました。
近づくと以前は(頭部から)朽ちかかりつつあった木柱が新しくなっていました。
そして碑の前にあった水をためる甕が壊れていました。それらを考えると、ここ慰霊碑も土砂に押し流され被害に遭ったのではと思うようになってきました。だから新しい木碑に建替えられることになったのではと?
頭を垂れた後、慰霊碑の処から下に降りているとき、以前あったお宅が土砂災害で壊れたのでしょう、更地になっていました。 |
2017年11月寺山公園に移設されたことを中國新聞記事(上記)で知りましたが、訪ねる機会がなかったのです。 |
2021年5月になりましたが、コロナ禍の中でしたが、(雨模様の中でしたので)息子が車で連れてきてくれたのです。
寺山公園は雨模様だったからでしょう駐車場には1台の車が止まっているだけで、(誰も居ず)ヒッソリとしていました。野生の鹿がいることを息子がみつけ、わたしがデジカメで撮影しようとするとじっとわたしたちを見ていました(別頁に画像を掲載予定)。
慰霊碑は、携帯のグーグルパップで息子が探してくれすぐにわかりましたので、碑の前で頭を垂れ黙祷しました。
石碑はありましたが、新聞掲載写真でみていた(石碑右隣の)木柱慰霊碑は無かったのです。 |
21.05.03.裕・記編集 |