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安佐北区可部町大毛寺(福王寺山南麓=下段に地図を付けました)に創建されている慈母観音堂の根際に建立されている「(原爆投下時落下傘落下地点)原爆犠牲者之碑」です。
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正面: |
昭和二十年八月六日八時十五分
原爆投下の際落下傘の落ちた地点
原爆犠牲者之碑
武田元繁後裔十四世 安光覚遊 建之
平成元年三月 題字 八十八翁 洋恵保夫 |
*昭和20年=1945年
*平成元年=1989年 |
裏面: |
(刻まれた文字なし) |
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1998年7月中國新聞で「モニュメントのつぶやき」という連載企画記事があり、その中の「落下傘の記憶」でここで取り上げた「原爆投下の際落下傘の落ちた地点 原爆犠牲者之碑」を紹介しています。
『1945(昭和20)年8月6日、原爆の爆発規模を測定する4つのパラシュート計器の内の1つ※が、爆心地から≒16kmのこの附近に落ちて「米兵が降りてきた」「爆弾を積んどる」などデマが飛び交い、大騒ぎになりました。山の持ち主だった故・安光覚遊さんは、原爆で一人息子の一夫さん(当時14歳)を亡くし、僧侶の道にすすみ、お寺を建てるのが念願だったそうですが、1990(平成2)年米寿を迎え、原爆犠牲者(慰霊)之碑と小さな観音堂を建立されました。』と紹介しています。 |
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亀山公民館の「亀山地域の史跡」の原爆犠牲者の碑の項目でもう少し詳しく紹介があります。
『広島に原爆を投下した米軍爆撃機B29には2機が随伴し、1機は写真撮影、1機は
爆発による振動や温度などを測定する装置をパラシュートで落す役割だったと云われています。
4個落した測定装置のうち3個のパラシュートが開いて、原爆炸裂から2時間後に
福王寺山南麓と、勝木の中腹、亀山四丁目の報恩寺近くに落ちました。』と紹介しています。 |
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『2007年8月6日(通称)平和記念式典の時、わたしの隣の席に、一眼レフデジカメで式典を撮っておられたご婦人が、おられたのです。式典が終わってからいろいろ話していくうち、ご自身の被爆体験の話をされそれを聴いていると「被爆時に米軍機から原爆の威力を測定するため投下されたゾンデ3個が不発弾騒動になり多くの住民が避難させられた。・・・」のですよと話されましたので、「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会の10号碑」を昨(2006)年みてわたしははじめてその事を知ったのですと云うと、あの絵はわたしが描いたものですといわれ、名前は云われませんでしたが帰宅後その頁をみて新澤慶子さんだと思いました。』そのようなことがありましたので何時かはここ「(原爆投下時落下傘落下地点)原爆犠牲者之碑」を訪ねてみなくてはと思っていたのです。 |
中國新聞の記事に大きな地図はありましたが、訪ねて行くには漠然過ぎて分かりませんでしたので、亀山公民館に尋ねたのです。
この慰霊碑を最近案内されたというKさんを紹介していただきTELで場所を教えていただきました。‘福王寺参道観音坂’の石柱を見落とさないように行けば分かるということで、国道191号に架かる義経橋根際の「福王寺参道観音坂」石柱の所から(徒歩で)登って行き、迷うこともなく、たどりつき、頭を垂れ撮影しました。(案内図を下段に付けました) |
福王寺に行くことを目標にしていませんでしたが「福王寺近道」石柱の根際に少し小さな「福王寺参道観音坂」の丁石も建っており、以前福王寺の丁石を頁にしていましたので、この観音坂ルートにも丁石が設置されているのかと、途中までですが、撮影しましたので別頁で編集します。 |
11.07.08.裕・記編集 |