寺山造成記念碑、寺山案内碑

  安佐北区可部東の寺山公園前建立されている「寺山造成記念碑」と「寺山案内・碑」です。
※観音像が造成記念碑となっており、その後側に寺山縁起が刻まれた寺山案内石碑があります。
寺山縁起の文責者・土井達郎さんは、元寺山の地権者、元安佐医師会会長で2015年5月に亡くなりました。
記念碑
観音像〔平成20(2008)年8月9日設立〕
「寺山公園造成記念」  〔被爆アオギリ二世平成20(2008)年8月9日植樹〕
「可部高校造成記念」 〔平成20(2008)年4月可部高校移転〕
寺山案内碑
寺山          平成20(2008)年8月9日 土井達郎
安佐北区可部、根の谷川左岸にある標高102mの山です。
寺山には弥生時代後期から古墳時代中期の古墳時代前期の遺跡(f墳墓群)と古墳時代中期の古墳がありました。(古墳時代ほぼ三世紀末から七世紀に至る時代)
南北に細長く中央の小さな谷を境に北東側(北尾根)と南西側(南尾根)に分かれ、北東側には広島県立可部高等学校とそのグラウンド、それと広島市の寺山公園が造成されています。南西側には古墳、遺跡があります。
寺山の北東には標高400m足らず(338.7m)の高松山がある。この山の山頂付近には高松城があった。高松城は、安芸国三入荘の新補地頭、熊谷氏の後期山城です。この熊谷氏の所領三千石の内三百石を末寺十二坊持つ、寺山の東側山すそにあった「迎接院(ごうしょういん)曼荼羅寺」の寺領としたと伝えられています。
根の谷川に沿って一の字型に伸びる峰は、聖なる山としての貫禄充分であります。又寺山はその姿があたかも屏風を立て掛けた形に見えるところから「屏風山」ともいわれた。
熊谷〔(第14代熊谷元直(1555-1605)〕は慶長5(1600)年関ヶ原の戦いに敗退した西軍の総大将・毛利輝元(元就の孫:1553-1625)と共に防長(山口県)に移り、その後寺山は、広島藩浅野家の藩領となりました。
元治元(1864)年第一次長州征伐、慶応2(1866)年第二次長州征伐と藩の財政は困窮し、広島藩は南原屋の木坂文左衛門(?-1871)に贋金(天保通宝)を造るよう命じました。文左衛門は寺山の北西麓で百人位の鋳物職人によって贋金造りを始めました。
この頃、寺山を土井清右衛門が買い取り、当時は禿げ山であったが以来、一衛、一郎、達郎の四代が150年に亘り代々経営努力を重ねてきました。
この度広島県立可部高等学校移転、広島市立寺山公園造成にあたり観音像を設立し記念とする。
   関連頁:寺山の観音堂(迎接院荼羅寺)   木坂文左衛門の墓
2021年5月になりましたが、コロナ禍の中でしたが、(雨模様の中でしたので)息子が車で連れてきてくれたのです。
寺山公園は雨模様だったからでしょう駐車場には1台の車が止まっているだけで、(誰も居ず)ヒッソリとしていました。

訪ねた目的が、移設された原爆被爆者慰霊碑を訪ねることでしたが、公園すぐ前に建立されていた観音像が慰霊碑関連かと思いましたので撮影に行ったのです。
観音像は造成記念碑として設立されたものでした。その後側の石碑は寺山の縁起が刻まれた寺山案内碑でした。
寺山案内板2008年設置で12年余の年月で経年劣化しており、読みずらいものになっており、案内図(下段に掲載)もすぐにはわかりずらいものになっていました。
文責の土井達郎さんは、可部上原(この付近)を交流ウォーク関連で何度か巡った時に観音堂なのでの説明板でしばしば出合った名前でしたので、この頁を編集しなくてはと思ったのです。。
21.05.05.裕・記編集

21.05.02.撮影
広島市安佐北区可部東4-28 寺山公園前

21.05.02.撮影
観音像(造成記念碑)      寺山案内石碑

21.05.02.撮影
造成記念碑

21.05.02.撮影
寺山案内石碑 (寺山案内図と寺山縁起が刻まれた銅板)

21.05.02.撮影

21.05.02.撮影
(上記文章の地図板です)



「その他」編
土地区画・開発関連記念碑など



広島ぶらり散歩へ
(可部地区)原爆被爆者慰霊碑-移設撤去-
(可部地区)原爆被爆者慰霊碑-寺山公園移設-
寺山公園
  寺山造成記念碑


「旧(安佐郡)可部町」編


inserted by FC2 system