(広島駅南口工事仮囲に紹介)三浦仙三郎橋爪陽

  広島市南区松原町のJR広島駅南口の工事仮囲いにあった「三浦仙三郎の説明板」です。
※また、広島県醸造試験場初代場長「橋爪陽の説明板」もとりあげました。
※2020年4月から駅ビルの建替工事がはじまり、その仮囲いに広島の酒に関する掲示が人の目を引いていましたので、その中の三浦仙三郎と橋爪陽に関する部分を取り上げたのです。
広島駅南口で、駅ビルの建替に伴う大規模な工事が行われています。(2025年開業予定のようです)
それに伴い、工事用の仮囲いに覆われた空間を「魅せる仮囲い」にして、広島の誇りや魅力、それを生み出してきた広島の人たちの想いやストーリーを発信する「HIROSHIMA CONNECTING WALL」が出現しています。
ここで取り上げたのは、その第2弾で「広島の酒」が掲示されていました。
掲示期間2020年11月〜2021年5月だったようです。
ホームページで、西条町の酒蔵通りの頁を編集していた時、軟水での醸造法を確立し、それを特許も取らず開示したことで広島の酒の発展につながり全国区の酒どころになったことを知ったので、何時かは三浦仙三郎を広島ゆかりの人たちの中に参加していただかなければと思っていたので、仮囲いに掲示されたものといえ、写真があったことから撮影していたのです。
2022年暮れになりましたが、安芸津の榊山八幡神社に建立されている「三浦仙三郎銅像」を撮影し頁を編集しましたので、その関連ということで、この頁を編集したのです。
23.04.11.裕・編集

21.03.16.撮影
広島市南区松原町 JR広島駅南口の2021年3月当時の工事状況
三浦仙三郎(みうら せんざぶろう:1847-1908)
   軟水醸造法・広島杜氏  生みの親
明治時代の初期、酒造用水としては、醗酵が旺盛になりやすい硬水が適していると云われていたのに対して、三浦仙三郎が生れた賀茂郡三津村(現・東広島市安芸津町)一帯の水は醗酵が緩慢になりやすい軟水で、優良な酒を造るのが難しく、腐造に至ることも度々だった。
仙三郎は、灘など当時の酒造先進地を訪れては研究し科学的な。手法も取り入れ、「百試千改」の努力を重ねて、軟水でも良質な酒を造りえる技術を編み出した。
また、それを『改醸法実践録』にまとめ、惜しみなく公開して広めた。「軟水醸造法」と呼ばれたその技術は、きちんと温度や時間を測る、清潔を励行するなど、現代から見れば実に基本的な事項の徹底であるが、勘に頼った酒造りが横行していた当時、それは画期的な酒造法であった。それが、現代に至る吟醸酒造りの発祥とされている。
さらに仙三郎は、広島県酒造組合や醸親和会(現・広島杜氏組合へ発展継承)設立にも大いに貢献し、酒造りに関わるには単に技術だけでなく人格形成も不可欠であると説いた。
そのような仙三郎の尽力は、明治後期に始まった〔明治40(1907)年発足〕全国清酒品評会に於ける広島県勢上位独占という華々しい結果として表れ、吟醸王国広島の名声を全国に轟かせた。そして、それ以降長きに亘り、日本の吟醸酒造りは広島が牽引することになり、三浦仙三郎の精神は現在の広島杜氏に至るまで脈々と受け継がれている。
   吟醸酒を創った男〜 「百試千改」の記録
三階建ての赤煉瓦造りの「酒蔵」が参加者の目をうばった。ボーン・ボーン。たて続けに昼間の花火が打ち上げられ、人々は一斉に空を仰いだ。「祝第一回清酒品評会」と書かれた大きな幟が風に煽れて翻っている。
明治40(1907)年11月17日、大蔵省醸造試験所(東京都北区滝野川)で、醸造協会主催第一回清酒品評会褒賞授与式が開催された。全国の酒を一堂に会し、その品質だけを純粋に競り合うという画期的な試みであった。
会場は、招待客、出品受賞者、新聞雑誌等の報道関係者などを中心に、三百名をこえる人波でふくれ上がった、参加者は、口々に品評会の意外な結果を取沙汰しあい
「広島の酒が最優など(優等中、第一位)に選ばれるとは信じられない」「灘の酒は存外ふるわなかったそうだが、いったい審査はどうなっていることやら」と首をひねった。
別の記者が「何が不満なんだ?優等が灘に総なめされても、つまらんだろう。むしろ喜ぶべき結果ではないか」と口をはさんだ。
「同感だね。優等、一等の受賞酒は利き酒ができるそうだから利いてみてから文句があるなら云うのだな」
午後二時、醸造協会主催第一回清酒品評会褒賞授与式が開始された。
主賓は、阪谷芳郎(1863-1841)大蔵大臣。桜井鉄次郎品評会会長(醸造協会会長)。東京帝国大学教授丹波敬三(薬学:1854-1927;哲郎の祖父)審査長の報告は下記であった。
審査員は、(新潟の)岸五郎、(広島の)三浦仙三郎(1847-1908)、(福岡の)首藤精、(兵庫の)長部文治朗、(京都の)大八木正太郎氏、(愛知の)細見京之助、(山形の)椿宮太郎らが務めた。
「出品数2,138点、参加人員1,886名、出品区域は台湾、カラフト、沖縄を除く全帝国に及ぶ。審査方法は今までの博覧会とは異なり、清酒の品質のみで優劣を判定した。すなわち色沢、香、味とともにバランスのとれているものを優品とした。優品の醸造法、貯蔵法は、きわめて注意深く、模範に値する。
世間一般の嗜好レベル、衛生思想の向上により、さらに品質の高い酒を要求される今日、本会開催の意義は大きい。従って審査はその意を介し、本会の趣旨を生かすべく万全を期した。その結果、優等5点、一等48点、二等120点、三等528点、総計701点を選んだ」
丹波審査長の報告のあと、桜井会長より優等賞及び一等受賞者には一人ひとりに、二等賞及び三等賞受賞者には総代に褒賞を授与した。
優等賞の金牌を受けたのは次の五名であった。
優等一位-広島「龍勢」(藤井善七:現・藤井酒造株式会社)
優等二位-広島「三谷春」(林森蔵:現・林酒造株式会社)
優等三位-福岡「富の壽」(富安猪三郎:元・富安合名会社、2009年破産「富の壽」酒銘は花の露へ)
優等四位-兵庫「灘の高賞」(高岡源七:戦災にて消失し現在は廃業)
優等五位-岡山[口印 三角正宗](牧佳三郎:戦中の企業統合で廃業)。
次に阪谷大蔵大臣が壇上に立ち演説した。
「審査結果はわたしの予想と異なり、優等受賞者が地方に分散したことは意外ではあったが、同時に非常に喜ばしいことだ。」
この第一回全国清酒品評会で最も評価を上げたのが広島の酒。
優等2点、1等18点をはじめ受賞率74.4%という好成績でした。
受賞率の全国平均の32.8%、灘を擁する兵庫の57.6%を上回った。
(この結果こそ三浦仙三郎の「百試千改」の思想が浸透した広島の酒造りの成果だったのではないのでしょうか。)
*上記文章は、掲示の文章のままではありませんし、全文でもありません。

21.03.16.撮影
説明板の三浦仙三郎の写真を使用しています

21.03.16.撮影
 軟水醸造法生みの親三浦仙三郎説明文(と第一回清酒品評会での広島の酒の評価)
 
橋爪 陽(はしづめ きよし:1876-1944)
青森県下北郡田名部町(現・むつ市)出身の橋爪陽は、25歳の時に広島税務管理局技手に任用され広島の地へ。その後広島税務管理局鑑定部長として、水質、米質、酵母などの試験を重点的に指導。大正11(1922)年に設立された広島県醸造試験場の初代場長として、広島県酒造業の指導と発展に尽力した。
三浦仙三郎の遺志を受け継ぎ、品評会や講習会を通じて杜氏の育成にも力を注いだ。
酒造用原料米の品質改良にも勤め「広島雄町」「八反」「広島錦」が酒造好適米であることを証明。生産を奨励し、広島県を酒米産地として育てた。
広島の日本酒というweb siteによると
橋爪陽を次のようにも紹介していますので参照しました。
『大蔵省の醸造技師として醸造試験場に赴任。他県への異動の辞令を断り、広島県の醸造技師として亡くなるまで広島を
離れず広島県酒の酒質向上のために尽力しました。
現在の広島杜氏の前身である三津杜氏の養成に尽くし、各杜氏組合の擁立に貢献した人物でもあります。
また明治43(1910)年に県立西條農学校と共に開場した同農事試験場において、新たな酒米の開発にも携わりました。』
  関連頁:(旧県立醸造支場前)橋爪陽先生像

21.03.16.撮影
説明板の橋爪陽の写真を使用しています

21.03.16.撮影
 広島県醸造試験場初代場長橋爪陽の説明文


「広島ゆかりの人たち」編



広島ぶらり散歩へ
榊山八幡神社
  三浦仙三郎銅像
(広島駅仮囲)三浦仙三郎・紹介
旧県立醸造支場
 林万寿人作)橋爪陽先生像
(広島駅仮囲)橋爪陽・紹介



inserted by FC2 system