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中区本通で建替えられた(新しい)建物「新店舗・広島アンデルセン」です。
※旧建物は、1945(昭和20)年8月6日被爆した“旧帝国銀行広島支店”でした(爆心地から約360mでした)。
※新店舗には、被爆した外壁の一部が再設置され、被爆当時の列柱の一部が再現されています。 |
2020年建替工事に伴う被爆外壁の保存・再現 |
1967(昭和42)年に建物を取得し、広島アンデルセンを開店して以来、被爆に耐えたこの建物は、≪食卓に幸せをはこぶ≫店でありたいと願うアンデルセングループに最高の舞台を与えてくれました。しかし、耐震性能の不足と設備老朽化に伴い、2016(平成28)年に閉店し建替えを行いました。建替えにあたっては被爆建物としての歴史的意義に鑑み、その保存に関する検討を重ねた結果、被爆当時のまま残る旧建物東面2階外壁を切り出し新店舗外壁に再設置するとおtもに、後年改修により喪われていた本通り側正面の列柱を再現しました。本通商店街に残る被爆建物として、将来にわたり広島の被爆の実相と復興のストーリーを伝えて行きます。 |
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旧建物東面(袋町通り側)□切り出し再設置した外壁 (株)アンデルセン生活文化研究所 |
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1925 |
大正14年2月 |
この地に三井銀行広島支店としてRC(鉄筋コンクリート)造2階建てとして新築されました。 |
1943 |
昭和18年4月 |
第一銀行と合併して帝国銀行広島支店となりました。 |
1945 |
昭和20年8月 |
6日8:15 爆心地より≒360m。被爆当時町名:革屋町。
米軍の原爆投下で宿直行員6名、女性行員12、13名の方々が亡くなったそうです。
建物は原爆被災説明板でわかるように屋根・天井は大部分が崩れ落ち外壁は爆心地方向の北西部は著しく破壊されています、しかし金庫室は屋根・スラブや壁が他より厚く、(米国)モスラー社製金庫は被爆に耐え現金や帳簿類は無事だったそうです。 |
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1950 |
昭和25年5月 |
修復を終えて仮営業で転々としていた帝国銀行〔1948(昭和)23年第一銀行分離〕は、この地に復帰しました。 |
1954 |
昭和29年1月 |
(元の名称)三井銀行に戻りました。 |
1967 |
昭和42年4月 |
タカキベーカリーが買収。
広島アンデルセンとして改築され、以後改築改修され今日に至っていました。 |
2020 |
令和2年8月 |
新店舗開店
(被爆建物)旧店舗外壁の一部切取り、新店舗2階外壁の一部に使用しています。
被爆当時の列柱の一部が再現されています。 |
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2020年11月コロナ禍のなかでしたが、日赤での定期検診前にアストラムライン紙屋町終点駅で下車し新しく開店したアンデルセン(店舗)を訪ねました。
以前の広島市設置の原爆被災説明板に変えて、新しい2つの説明板(上記の内容で)設置されていました(別頁編集しました)。その一つが上記〔旧建物東面(袋町通り側)□切り出し再設置した外壁〕です。
被爆外壁の一部を残そうとする(費用面を考えても)アンデルセングループのその意志は広島市民に対して強いメッセージとなっていますが、旧建物が完全に解体されていますので“被爆建物”ではなくなっています。
新店舗に設置された被爆外壁の一部は「被爆モニュメント」であり、説明文にある『被爆建物として・・・』は誤解を与える碑文になっていると(わたしは)思ったので(上記紹介の碑文は)碑文そのままの文章ではありません。 |
21.01.06.裕・編集 |
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20.11.12.撮影 |
広島市中区本通7-1 (建替えられた新しい)広島アンデルセン |
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一部被爆外壁の保存 |
20.11.12.撮影 |
広島アンデルセン袋町通り側(爆心地の反対側)一部被爆外壁が再設置されています |
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20.11.12.撮影 |
再設置された被爆外壁の処を見ました(範囲は下説明板画像) |
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20.11.12.撮影 |
説明板の画像:白□部分が切り出し再設置した外壁 |
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被爆した当時の外壁(列柱部)の再現 |
20.11.12.撮影 |
広島市中区本通7-1 現在:広島アンデルセン(本通り側) |
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20.11.12.撮影 |
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20.11.12.撮影 |
(被爆当時の北側外壁) 2階の列柱部が今回再現されました |
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竣工まじかのアンデルセン新店舗 |
20.06.22.撮影 |
(工事用バリケードになり)新店舗の姿がわかるようになっていました
2020年コロナ禍の中、人通りもそれなりにあった本通り商店街でした |
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20.06.22.撮影 |
(北側外壁には)被爆外壁がPC板になり設置されていると聞いています |
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20.06.22.撮影 |
(南側外壁には)当初あったという列柱が復元されています |
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20.06.22.撮影 |
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