(饒津神社)御陣中御手水鉢
  東区二葉の里の饒津神社に置かれている「(浅野長政愛用の)御陣中御手水鉢」です。
御陣中御手水鉢の由緒            饒津神社社務所
  御祭神・浅野長政(1547-1611)公が肥前国(佐賀県)名護屋城内、御陣屋(弾上郭)で愛用されたものです。
1786(天明5)年九代藩主・重晟(1743-1813)公の時、泉邸(縮景園)清風館へ移設。1835(天保6)年当饒津神社造営の時「御陣中御手水鉢」として現在地に設置されました。「殊外古物甚面白き(ことのほかふるきものはなはだおもしろき)石手水鉢」と称されました。
(なごやじょう)
名護屋城:
佐賀県鎮西町にあった城。豊臣秀吉(1536-1598)が朝鮮出兵の基地として1591(天正19)年から築城し1592(文禄元)年完成。
秀吉は1593(文禄2)年から1年余この城に在城、城の周囲には166ヶ所の諸大名の陣営が散在し、全盛期には在陣軍勢は10万を超え、さながら城のある半島全体が要塞都市になっていた。秀吉死後、遠征軍が帰国するとともに廃城となり建造物なども破却された。石垣が現存。
(だんじょうくるわ)
弾上郭:
長政が、1588(天正16)年に、従五位下・弾正少弼(だんじょうしょうひつ)に叙任されたことからこう呼ばれていたのではと(わたしは)思います。
1835(天保6)年に現在地に設置されたという説明文からこの手水鉢は爆心地から約1800mで被爆した構築物ということがわかりました。
何度となくここ饒津神社を参拝したわたしですが、今(2013)年は女房と子供は早い時期に参拝したと云うのに、わたしは初詣とは云えない1月18日に参拝したのです。
拝殿前で参拝した後、根際の稲荷大明神を参拝しました、その途中ここで紹介する“御陣中御手水鉢の由緒”板を見たのです。いままで何という節穴だらけの目をしているのかとわたし自身を恥ずかしながら思ったのです。
設置の板を読むと浅野長政に縁ある手水鉢の説明文でした。被爆した手水鉢だったのだと、柵の外からしか撮影できませんが、撮影して編集しなくてはと思ったのです。
13.01.17更新

13.01.18.撮影
広島市東区二葉の里2‐6‐34  饒津神社

13.01.18.撮影

13.01.18.撮影

13.01.18.撮影

13.01.18.撮影

13.01.18.撮影



「神社寺院など」編


「牛田・二葉の里附近」編



広島ぶらり散歩
饒津関連頁
饒津神社(概説)
饒津神社・原爆被災説明板
(枯死した)被爆樹木・松
(境内に残る)原爆の傷跡復興記念碑
(再建された)向唐門
(再建された)両部大鳥居
(境内社)稲荷大明神
(境内建立の)浅野長勲公頌徳碑
(境内建立の)石水盤石燈籠銘・碑
(被爆した)御陣中御手水鉢
(境内建立の)坂井虎山先生之碑
(境内建立の)河野小石先生碑
(境内建立の)木原桑宅翁之碑
(境内建立の)北清事変忠死者紀念之碑
(境内建立の)臨時陸軍検疫部職員死者追悼之碑
(被爆した)標縄柱
(境内建立の)標縄柱銘并序・碑
(境内建立の)広島県職工学校開校の地・碑
(境内建立の)平成の御大典奉祝記念樹・碑
広島市保存樹73:クスノキ
広島市保存樹74:エノキ・ケヤキ
(番外)饒津神社の絵馬


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