ほうらいざん  こくたいじ
蓬莱山 国泰寺
  西区己斐に建てられている「蓬莱山(ほうらいざん)國泰寺」です。
※広島新四国88ヶ所霊場第12番霊場。
※もともと国泰寺は現在の中区に創建されていましたが、1945(昭和20)年8月6日原爆の惨禍で焼失し、
  戦後西区の現在地に移転しています。
曹洞宗 國泰寺略記           2002(平成14)年3月 
当山は、蓬莱山國泰寺といいます。藩主・浅野家の菩提寺でした。以前は広島市内中心地(現・中区中町)にありましたが、1978(昭和53)年3月28日この地に移転しました。
藩政時代には、広島城下曹洞宗の觸頭を勤め、その末寺百四十数ヵ寺を有していました。
1592(天正20)年4月豊臣秀吉が朝鮮出征途中広島に立寄りこの寺で、僧・恵瓊らと清遊しました。
1594(文禄3)年豊臣秀吉が朝鮮から帰国、霊仙寺を大改築して大伽藍を創建し臨済宗安國寺としました。従って恵瓊は当寺の開基となります。1598(慶長3)年8月18日豊臣秀吉が薨去、恵瓊はその遺髪を分けて五輪塔を築き安置しました。
1600(慶長5)年10月1日関ヶ原の戦いで敗れた恵瓊は誅され、1601(慶長6)年3月福島正則が入国しました。同(1601)年12月6日尾張国の雲興寺普照(正則の弟)が招請され、1602(慶長7)年4月12日普照は安國寺を國泰寺と改め、宗派も曹洞宗としました。普照は開山です。
寺號の由来は豊太閤の法名「國泰寺殿前太閤相國雲山俊龍大居士」によるものです。
在城20年、福島正則は信州に改易され、1619(元和5)年8月紀州から浅野但馬守長晟が入国しました。この時。菩提寺大専寺の徹洲全宋が従い、1622(元和8)年4月開山普照の退隠後。國泰寺二世となりました。その後当寺は浅野家の菩提寺になり、現在に至っています。
大石良雄の妻・りくと三男・大三郎は広島藩に迎えられ、りくは当寺九世大震禅師に就き法尼となりました。大三郎は御旗奉行次席にとりたてられ、父・良雄が赤穂藩家老として受けた禄高壱千五百石を賜りました。墓所の一角にりく(香林院花屋寿栄大姉)、大三郎(松巌院忠幹蒼栄居士)と一族のお墓があります。古くからの恒例行事として、4月12日に豊太閤の五輪塔で献茶式法要、12月14日には浅野家に縁のある赤穂義士の追悼法要が行われていました。
1873(明治6)年1月初めての公立小学校が当寺内に開かれました。また同(1873)年3月に広島県庁が移され当寺内で約3年業務を行っていました。
国泰寺跡(愛宕池跡)の頁を編集していましたが、己斐峠近くに移っている国泰寺には行ったことはなかったのです。
大石蔵助の妻・りく、三男・大三郎が広島藩に招かれた経緯やお墓が国泰寺にあって、お寺の移転にともない移築されていることを益田与一氏著の「頼山陽と芸備の人々」を読んでいて知り是非に訪ねなくてはと思ってきたので、彼岸の中日を過ぎに訪ねました。
 08.03.15裕・記編集

08.03.22.撮影
広島市西区己斐3-975-5

08.03.22.撮影

08.03.22.撮影
楼門は鉄筋コンクリート造りの龍宮門がいまの国泰寺にはお似合い??・・・

08.03.22.撮影
葬儀の後片付け中でしたので本堂の内部の撮影は遠慮しました・・・



「広島の神社仏閣」編
(「広島新四国八十八ヶ所霊場」編)



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国泰寺
 (境内の)赤穂義士追遠塔
 (境内の)追遠塔建設記念碑
 (境内の)大石りくの墓
 (境内の)大石大三郎の墓
 (境内の)武林堆七祖父治庵之墓
 (境内の)豊臣秀吉遺髪塚
 (境内の)安国寺恵瓊遺髪塚
 (境内口の)林為龍筆の石標
国泰寺跡
  (国泰寺跡)被爆した樹木
  (愛宕池跡の)二等水準点


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