(隨泉寺)高松悟峰誕生地・碑

  安芸区中野東の隨泉寺に建立されている「高松悟峰誕生地・碑」です。
正面 勧學高松悟峰和上誕生地 
       學寮寮頭正念謹書
裏面 (記述なし)
高松悟峰(たかまつ ごほう:1866-1939)
浄土真宗本願寺派勧学。安芸国安芸郡中野村生まれ。隨泉寺11世秀法の次男。
幼名:秀若。(広島)進徳教校中等科、(京都・本願寺)大教校高等科卒業。
1898(明治31)年西向寺16世覚了の養嗣となる。1906(明治39)年西向寺内に創設された真宗学寮の学頭になる。1920(大正9)年勧学となる。
2009年西区南観音にある真宗学寮を訪ねた時に、「勧学廣済院悟峰和上碑」をみて、(わたしは)高松和上をはじめて知りました。
今(2014)年3月わが地区の中野公民館主催と瀬野川郷土史研究会共催の「ふるさと教室」に参加させていただいた時、隨泉寺境内に高松悟峰和上誕生地碑が建立されている事を教えていただきましたので、広島ゆかりの人たちに加わっていただこうとこの頁で編集することにしました。
 14.04.25.裕・記編集

14.03.15.撮影
広島市安芸区中野東7-27-30

14.03.15.撮影

14.03.15.撮影

14.03.15.撮影
勧學高松悟峰和上誕生地        (真宗)學寮(三代)學頭(山本)正念 謹書
親鸞聖人像
正面像 親鸞聖人像
台座 一人にて慶は、二人と思ふべし
二人にて慶は、三人と思ふべし
其の一人は、親鸞なり
親鸞(しんらん:1173-1262)
鎌倉初期の僧。浄土真宗の開祖。日野有範(ひのありのり)の子。比叡山で天台宗などを学び、29歳のとき法然(1133-1212)に師事し、他力教に帰した。師の法難に連座して越後に流され、ここで恵信尼(1182-1268?)と結婚し、善鸞と覚信尼(1224-1283)をもうけた。のち、許されて常陸・信濃・下野などを教化(きょうけ)し、浄土真宗を開き、阿弥陀による万人救済を説いた。著「教行信証」「愚禿鈔」など。見真大師。
台座に刻まれたこの言葉が、文学碑になるのか?とわたしに問われれば違うでしょうねと答えるだろうと思いますが、浄土真宗を信仰している人たちの心をあらわしているのだろうと思いましたので編集しました。
わたしは浄土宗宗徒、浄土真宗と同じ「南無阿弥陀仏」という念仏を唱え信じることで浄土の世界に永遠に生きていけるという信仰の教えに導かれている者ですので、親鸞を法然に置き換えればと思ったりしました。
宗教とはいがみ合うことを助長するものではなく、(考えが違おうとも)現世安穏に暮らせることを導く教えではないのかと思っています。

05.04.28.撮影



「わが町(旧・瀬野川町)附近」編


「文学碑など」編



広島ぶらり散歩へ
  (初代学頭高松悟峰関連頁)
真宗学寮(高松和上が創建した)
隨泉寺(高松和上生れたお寺)
  勧學高松悟峰和上誕生地・碑
西向寺(高松和上が住職だった)
  (被爆した)高松和上の墓


「広島ゆかりの人たち」編


inserted by FC2 system