しんしゅうがくりょう
眞宗學寮
  西区南観音に建てられている「真宗学寮」です。
※2019年10月31日広島市により、講堂と寮舎が被爆建物として登録されました。
   爆心地から2,620m
真宗学寮の資料によると
真宗学寮は、専門的な浄土真宗学、仏教学を無料で学べる機関です。
1906(明治39)年5月西向寺内に創設以来、「誰でも宗学が学べる研鑽道場」という初代学頭・高松悟峰(ごほう:1866-1939)和上の理念により、無料で受講でき、誰でも専門的な宗学を学ぶことが出来ます。
建学の精神は、明治時代京都で宗学を学ぶことができたのは、経済的理由のため寺院後継者に限られました。そこで、地方でも誰もが負担なく浄土真宗の教えを学べるようにと、安芸の僧侶・同行の方々の尽力で創立されました。・・・
』と述べています。
広義に考えれば、江戸中期から明治初期にかけて名だたる学僧を輩出した(芸州の浄土真宗学派)芸轍(げいてつ)の流れ・精神を受継いだ高松悟峰などによって創設されたのだろうと(わたしは)思っています。
勧学廣済院悟峰和上碑   昭和38(1963)年癸卯 春日 三代学頭(山本)正念 謹書
高松和上は慶應2(1866)年安芸中野隨泉寺に生れ、明治31(1898)年広島市西向寺に入り明治39(1906)年真宗学寮を創設する。
大正9(1920)年勧学を拝受する。(真宗学寮・大正15年現在地に移る)。(学頭34年)。昭和14(1939)年7月2日示寂せられる。74歳。         
銘曰: 天資持智徳 学解極儒襌 慈訓化緇素 遺芳萬古傳
(かんがく)
勧学:
1)学問を奨励すること。
(2)浄土宗浄土真宗等で教学上の最高の位。
 宗派の学問に関する最高権威。
(じじゃく)
示寂:
菩薩や高僧が死ぬこと。入寂(にゅうじゃく)。
浄土真宗の私学として僧侶の養育に努められているということで、交流ウォーク探検隊の時教えていただきました。
いままで空港通りをバスや車で通っただけで、この辺りはぶらり散歩したのは(わたしは)はじめてで、教えていただかなければこの真宗学寮は気がつかなかったのではと思いました。
2011年交流ウォーク本番で立ち寄った時、講堂に居られた方に真宗学寮で催される広済会の案内紙を頂きました。
みると真宗学寮の歴史も掲載があり、(下記の文章がありました)
『・・・この地(南観音)で原爆に遭いました。講堂の天井は落ちましたが寮は焼けることもなく、当時のありさまを保っています。・・・・』とありました。
居られた方に伺うと、平成になって修理をしましたが、被爆建物と聞いていますと云うことでした。
わたしが参考にしている資料には、被爆建物としてこの真宗学寮の記述はありませんでしたので、被爆建物と云う事をまったく知りませんでした。

地図上をスケールで測ると(正確ではありませんが)爆心地からおよそ2,450mくらいでした(爆心地から2,620mと資料にあります)、天満川に架かる昭和大橋(爆心地より2,850mより明らかに爆心地に近いので)追記しました。
2019年11月1日ここ真宗学寮の講堂と寮舎が被爆建物に登録されたと中國新聞記事で知りましたので、講堂の画像を加え追記し、この頁を更新しました。
19.11.01.更新    09.03.02裕・記編集

09.01.10.撮影
広島市西区南観音2-8-15

09.01.10.撮影
(被爆した)講堂

11.10.15.撮影
09.01.10.撮影
寮舎

11.10.15.撮影
(被爆建物と教わった)真宗学寮の寮

09.01.10.撮影
「御経庫」と「勧学廣済院悟峰和上碑」と「真宗学寮史蹟・碑 昭和48(1973)年癸丑建之」

09.01.10.撮影

09.01.10.撮影
勧学廣済院悟峰和上碑
敬称は略しました



「神社寺院など」編


被爆した建物・構築物」編



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  (初代学頭高松悟峰関連頁)
真宗学寮(高松和上が創建した)
隨泉寺(高松和上生れたお寺)
  勧學高松悟峰和上誕生地・碑
西向寺(高松和上が住職だった)
  高松和上の墓


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