(覚苑寺)狩野芳崖先生像

  山口県下関市長府安養寺の覚苑寺に建立されている「狩野芳崖先生像」です。
※この像は、1979(昭和54)年11月14日芳崖生誕150年を記念した二代目の像で、
                                             下関市出身の中村辰治作だそうです。
狩野芳崖(かのうほうがい:1828-1888)
  日本画家。長門国(山口県)長府藩御用絵師狩野晴皐の長男。幼名:幸太郎。別号:松隣・勝海など。
1846(弘化3)年江戸に出て狩野勝川院(かのう しょうせんいん)雅信に入門、たちまち頭角を現した。佐久間象山(しょうざん:1811-1864)にも学んで進取の気性に富み、狩野派の粉本主義に疑問を抱いて独創を試み、危うく破門されるということもあった。
1855(安政2)年に帰郷このころから芳崖と号した。
1860(万延元)年にふたたび江戸に出るが、やがて江戸払いとなって郷里に戻り、1871(明治4)年廃藩置県で禄を失った。1877(明治10)年に上京、陶器や漆器の下絵描きなどに従事したが、貧窮を極めた。
1884(明治17)年第2回内国絵画共進会に出品した『桜下勇駒図』『雪山暮渓』がアーネスト・フェノロサ(米・東洋美術史家:1853-1908)に認められ、フェノロサを介して岡倉天心(1862-1913)とも親交を結び、鑑画会に加わって新しい日本画の創出に力を注ぐことになった。
1886(明治19)年第2回鑑画会大会で一等賞を受賞した『不動明王図』(重要文化財)は、西洋の絵の具を用いた色調が鮮やかで、構図の斬新さとともに、新しい表現を切り開く強い意志をうかがわせる。1885年に文部省図画取調掛雇となり、フェノロサや天心と力をあわせて東京美術学校の創設に努めた。
1888(明治21)年には東京美術学校日本画科主任教授に内定したが、翌(明治22)年の開校を待たず1888(明治21)年11月5日没した。
死の直前に完成した『悲母観音』(重要文化財)は、近代日本画の代表作の一つとして名高い。
  関連頁:(切手になった絵画)狩野芳崖「悲母観音」
(かのうは)
狩野派:
日本画のいち流派。室町中期に起こり、武家政権の庇護のもとに、日本画の主流を占めつつ、江戸時代を通じて将軍家御用絵師としての家業を世襲した。
始祖の正信(1434-1530)は、禅僧の宋元画を継いで水墨画を主とし、その子の元信(1476-1559)は大和絵の画法を取り入れ、力強い装飾性をもって武家の好みに投じた。孫の永徳(1543-1590)は織田信長・豊臣秀吉に仕えて安土桃山時代の障壁画を代表。豊臣氏滅亡ののちは、徳川家御用絵師となり、永徳の孫の探幽(1602-1674)に至って、江戸狩野派の基礎は不動のものとなった。その門系から狩野芳崖、橋本雅邦(1835-1908)が出ている。
(ふんぽん)
粉本:
1)(昔、胡粉(ごふん)を用いて下絵を描き、のち墨を施したところから)東洋画で、下書きのこと。
2) 後日の研究や制作の参考とするために模写した絵画。
3) 絵・文章などの手本とするもの。
覚苑寺境内でみた狩野芳涯の像、狩野派の絵師なのだろうと思いましたが、芳涯どこかで聞いたことがあるな〜と思っただけのわたしでした。帰宅後、そうだ狩野芳涯の絵が切手になっているなと思いだしたのです。
雨の中この像の作者のサインを探すこともなくわからなかったのですが、NET検索によると、下関出身彫刻家中村辰治だそうです。
12.02.04裕・記編集

09.01.29撮影
山口県下関市長府安養寺3-3-10   覚苑寺

09.01.29撮影

09.01.29撮影



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