伝説:康頼卒塔婆漂着の石(鏡の池)
  廿日市市宮島町の厳島神社境内にある“鏡の池”の中の石「卒塔婆漂着石」です。
そのむかし(平安時代末期)、
『平康頼は平家にとらわれて鬼界ヶ島(硫黄島)にながされました。
日々故郷の年老いた母恋しさに歌を詠んで過ごしていましたが、その和歌※を千本の卒塔婆(卒堵婆)に書いて海に流しました。その一本がここの石に流れ着き、おりからゆかりの者(僧)がこれを持って都の母のもとへ届けたそうです。のち、許された康頼はお礼に燈籠を寄進した』
と云い伝えられています。
※卒塔婆には、自分の名前と、二首の歌を記していました
薩摩潟沖の小島に我ありと 親には告げよ八重の潮騒(しほかぜ)
思ひやれしばしと思ふ旅だにも なほふるさとは恋しきものを
流された、藤原成経(1156-1202)と平康頼は千本の卒塔婆(卒堵婆)を作り海に流すことを発心するが、俊寛はこれに加わらなかった。千本の卒塔婆(卒堵婆)に心を打たれた平清盛は、高倉天皇の中宮徳子の安産祈願の恩赦を行い、成経と康頼は赦されたが、俊寛は謀議の張本者という理由から赦されず島に一人とり残された。
俊寛は絶望して悲嘆に暮れ、娘の手紙を受け取り死を決意して、食を断ち自害した。(俊寛の侍童だった)有王は鬼界ヶ島より俊寛の灰骨を京へ持ち帰った。
厳島神社の“鏡の池”は3箇所あり、ここ“康頼卒塔婆漂着の石”と呼ばれている円形の池が一つの鏡の池です。
他の一箇所は厳島八景にもなっています。またもう一つは天神社の南側にあります。
この千本の卒塔婆の話に心を打たれた平清盛は赦免を行う。『平家物語』に出てくるそうです。
わたしは平家物語を読んだこともなく、この話は知りませんでしたし、何度もこの卒塔婆漂着石の根際を歩いていたのに説明板を読んだこともなかったのです。
今(2007年)回交流ウォーク探検隊で訪ねたときに藤井先生に教えていただき撮影しました。
この卒塔婆石は干潮の時に見る事が出来ます。
どうも鏡の池としての画像が足りないと2015年撮影していました。いまになりましたが画像を加えこの頁を更新しました。
2021年コロナ禍で、ここ厳島神社を参拝する人もほんのわずかの中で(ここ(康頼卒塔婆漂着石)鏡の池も撮影しました。
22.06.11.更新   07.10.14裕・記編集
   関連頁:康頼燈籠 

07.10.06撮影
広島県廿日市市宮島町1-1 (厳島神社境内)  卒塔婆漂着石は(鏡の池の中の石です)

07.10.06撮影
卒塔婆石(一部)
(奥側の燈籠)康頼燈籠

07.10.06撮影

15.12.18.撮影

15.12.18.撮影

15.12.18.撮影

15.12.18.撮影
 「諌鼓型燈籠」 と 「康頼燈籠」 と 「康頼卒塔婆漂着石(鏡の池)」

21.01.22.撮影
(画像左側が山側)  「康頼卒塔婆漂着石(鏡の池)」  (画像右側が海側)

21.01.22.撮影
「康頼卒塔婆漂着石(鏡の池)」

21.01.22.撮影
「康頼卒塔婆漂着石(鏡の池)」 手前側は東回廊
たいらのやすより
平康頼
(生没年不詳)
平安時代後期の貴族。
検非違使となり、平判官と称した。 1177(安元3)年、藤原成親、西光、俊寛らの平家打倒の密議に参加。その酒席で瓶子が倒れるのを「平氏が倒れた」と喜んでいた。密告でこのことが漏れて康頼も捕縛される。俊寛、藤原成経と共に薩摩国・鬼界ヶ島へ流された。(鹿ケ谷の陰謀:ししがたにのいんぼう)。
1178(冶承2)年に赦免船が来て成経とともに赦免され京へ戻る。帰京後は仏教説話集『宝物集』を記し、1186(文治2)年源頼朝の推薦により阿波麻殖保司の職に就く。
へいし
瓶子
酒を入れて、つぐのに用いる器。口の細い胴のふくらんだ細長い瓶。
徳利(とくり)。へいじ。
しゅんかん
俊寛
(1143?−1179)
平安時代後期の真言宗の僧。村上源氏の出身で、木寺(仁和寺院家)の法印寛雅の子。
(別の呼名として「僧都」と呼ばれる位の名を付け、「俊寛僧都」(しゅんかんそうず)などとも呼ばれる。)
後白河法皇の側近で法勝寺執行の地位にあった。
1177年、藤原成親、西光らの平氏打倒の陰謀に加わって鹿ヶ谷の俊寛の山荘で密議が行われた(この後は上記)
そとば
卒塔婆
供養・追善のため、墓などに立てる細長い板。塔の形の切り込みがつけられ、梵字・経文・戒名などが記されている。板塔婆。塔婆。そとうば。(厳島神社社務所の本では卒堵婆という字を用いています)
関連頁: 源光院:オヤジの墓に卒塔婆を立てています



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「安芸の宮島」編



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     (嚴島神社鏡の池関連)
(厳島八景の一つ)鏡の池
(卒塔婆石の)鏡の池
(天神社横の)鏡の池


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