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中区基町の(広島市)中央公園の一角に造られている「広高の森」です。
※広高の森は、中央公園広場の北東に位置しています。
*広高の森には“(旧制)広島高等学校”関係者の句碑や歌碑などが建立されています。 |
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(旧制)広島高等学校略沿革 |
1923(大正12)年12月10日勅令第501号により官立高等学校として皆実町(現・南区翠1-1-1)設立。 |
1924(大正13)年4月12日第1回入学式。 |
1944(昭和19)年呉海軍工廠・東洋鋼鈑下松工場・日本製鋼所広島製作所などへ学徒動員開始。 |
1945(昭和20)年8月6日原爆被災。 |
1946(昭和21)年2月佐伯郡大竹町に全面移転。 |
1947(昭和22)年10月復興された広島市皆実町校舎への移転を完了し記念祝典挙行。 |
1949(昭和24)年5月31日国立学校設置法公布で設立された広島大学に包括され
「広島大学広島高等学校」と改称。 |
1950(昭和25)年3月31日廃校(卒業生4,364名)。 |
関連頁:旧制広島高等学校・原爆被災説明板 |
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2006年3月の交流ウォークのときに立ち寄り、鳴沢花軒句碑、大谷繞石句碑、北島葭江歌碑が建立されていることを知りました、その時時間がなかったからではなく、理系育ち、日本語不得意のわたしですので読めなかっただけですが、編集しているいまもよくわからないところがあります。
間違っているところはご指摘・ご指導よろしくお願いいたします。
平成20年大谷繞石句碑の読み方が間違っているとご指摘いただきましたので、訂正しました。
令和元年北島葭江歌碑の読み方が間違っていることをご指摘いただきましたので、訂正しました。 |
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2019(平成31)年2月(4月の市長選挙前)に「新サッカースタジアム建設地、中央公園広場に決定」と報道されました。その市長三選を果たしましたので、計画は進められるでしょう。
2024年のシーズン開幕までの開業を目指すと云っていますので、サッカースタジアム計画(設計)図はまだありませんが、この広高の森もスタジアム工事での影響があるかもしれないと思いましたので、追記しました。 |
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広島市市民局文化スポーツ部文化振興課公開資料を使用しています |
広島市市民局文化スポーツ部文化振興課が2021年10月25日更新した“サッカースタジアム等整備事業の基本設計”をみると、
その中の全体配置配計画図(左図)で北東側の「広高の森」が残るようになっています。 |
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上の計画図では、現在の「広高の森」とは若干ずれている部分があるように(わたしは)思うので記念碑などの移設があるかもしれませんが、旧制広島高等学校卒業生たちの声なき声の(良き)圧力があったのかもしれないとわたしは思い、森になりつつあった広高の森が中央公園の一角に残る計画に賛同しています。 |
敬称は略しました |
21.10.29 再編集 06.10.03裕・紀編集 |
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広高の森 |
20.10.16.撮影 |
広島市中区基町 中央公園広場 広高の森 |
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20.10.16.撮影 |
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20.10.16.撮影 |
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広高の森・碑 |
森を贈ることば 昭和48(1973)年10月 広島高等学校同窓会 |
広島高等学校の創立は大正13(1924)年のことでしたが、昭和25(1950)年学制改革によって閉鎖され広島大学の母胎となりました。
その間20有余年われわれ同窓の者4800余名はひろく市民の暖かい愛情に包まれ学園生活を送ることができあした。かって享受したその恩顧にむくいるためここに学校創立50年を記念し感謝の心をこめてこの森を贈るものです。 |
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06.03.18.撮影 |
広島市中区基町 中央公園 「広高の森」碑 |
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06.03.18.撮影 |
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20.10.16.撮影 |
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20.10.16.撮影 |
碑正面 |
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20.10.16.撮影 |
碑裏面:碑文 |
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中島光風歌碑 |
「出で征きし教へ子どもの誰彼れが心に乗りて朝に夕なに」
原爆で被爆死した中島光風1943(昭和18)年作。遺歌集「中島光風歌集」に収められいます。
遺歌集は当時の門下生の手で編まれたもので、教え子の一人・阿川弘之(1920-2015)の「春の城」に“矢代先生”として登場し、それにはあの原爆の日、市内上流川町の自宅で被爆、外出中だった夫人を探し求めて焼け跡をさまよい、ついに原爆症に倒れる痛ましい姿が描かれています。 |
中島光風(なかじまこうふう:1900-1945) |
福岡市生まれ。東京大学国文学科卒業。旧制広島高等学校教授。
1934(昭和9)年旧制広島高等学校国文学教授として赴任、校内短歌会なども指導された(そうです)。短歌会、万葉研究会などを開いて戦時下の若者たちの心の支えとなった(そうです)。
光風は、1945(昭和20)年8月6日原爆で行方不明になった千代子夫人を追うように1945(昭和20)年8月31日亡くなったそうです。主な作品 「上世歌学の研究」。 |
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*資料は、広島県編纂「ひろしま文化大百科」を参照しました |
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06.03.18.撮影 |
広島市中区基町 中央公園 「広高の森」 |
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06.03.18.撮影 |
中
島
光
風
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心
に
乗
り
て
朝
な
夕
な
に
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教
え
子
ど
も
の
誰
彼
れ
が
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出
で
征
き
し
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13.05.17.撮影 |
手前:中島光風歌碑 向側:広高の森・碑 |
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鳴沢花軒句碑 |
06.03.18.撮影 |
冬
日
和
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地
球
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わ
れ
等
が
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美
し
き
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鳴
沢
花
軒 |
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廣
島
高
等
學
校
卆
業
生
有
志
建
之
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昭
和
五
十
四
年
九
月
吉
日
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20.10.16.撮影 |
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20.10.16.撮影 |
正面 |
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20.10.16.撮影 |
裏面 |
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大谷繞石句碑 |
大谷繞石(おおたに ぎょうせき:1875-1933) |
俳人、英文学者。島根県松江市生れ。本名は正信。松江中学、東京帝国大学文科大学英文科で小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)に学ぶ。
京都の三高在学中、高濱虚子・河東碧梧桐を知って句作し、東京帝大入学後、正岡子規庵句会に参加。松江の子規派句会「碧雲会」結成に尽力。金沢の四高教授時代、子規派句会「北声会」を指導、弟子に室生犀星がいました。子規派の俳人として名をはせました。
1924(大正13)年新設の旧制広島高等学校教授(教頭)となり、1932(昭和7)年2月退官まで9年間勤めました。 |
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06.03.18.撮影 |
東
風
そ
め
し
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濠
端
の
樹
も
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枝
下
ろ
さ
れ
し
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大
谷
繞
石 |
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廣
島
高
等
學
校
卆
業
生
有
志 |
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昭
和
四
十
八
年
十
月
吉
日
建
之
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広島市中区基町 中央公園 「広高の森」 |
※句の読み方が間違っていまし。東京のT氏よりご指摘いただき訂正しました。08.03.22訂正 |
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13.05.17.撮影 |
向側:加藤友三郎銅像 手前:大谷繞石句碑 |
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13.05.17.撮影 |
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北島葭江歌碑 |
06.03.18.撮影 |
北
島
葭
江 |
眞
日
の
大
空
ひ
た
さ
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ぼ
る
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む
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広
島
高
等
学
校
卒
業
生
有
志
建
之
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昭
和
四
十
八
年
十
月
吉
日
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広島市中区基町 中央公園 「広高の森」 |
※歌の読み方が間違っていまし。お孫さんよりご指摘いただき訂正しました。19.05.02訂正 |
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20.10.16.撮影 |
正面 |
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20.10.16.撮影 |
裏面 |
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旧制広島高等学校 創立八十年記念樹 |
旧制広島高等学校 創立八十年記念樹 平成15(2003)年10月建立 |
1923(大正12)年12月10日勅令第501号により官立高等学校として(現・南区翠1-1-1に)設立。 |
1924(大正13)年4月12日第1回入学式。 |
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1949(昭和24)年5月31日国立学校設置法公布で設立された広島大学に包括され
「広島大学広島高等学校」と改称。 |
1950(昭和25)年3月31日廃校(卒業生4,364名)。 |
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06.03.18.撮影 |
06.03.18.撮影 |
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20.10.16.撮影 |
創立八十年記念樹・碑 |
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20.10.16.撮影 |
2006年みたときからは幹も太く、背も伸びたようです |
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