|
佐伯区五日市1丁目の東西の小道北側にいまも残る石垣、それが「海老塩浜堤防の跡」だそうです。 |
旧海老塩浜堤防跡 広島五日市ライオンズクラブ |
五日市1丁目13番地の古浜第5踏切から、14番地の古浜第1踏切に至る細い小道の北側に石垣が長く続いています。西国街道(旧国道)の通る堤防跡は「中土手」と呼ばれ、広大な海老塩浜の北辺でした。
文政年間(1818-1830)に載る玄藩通志の五日市村と海老塩浜の絵図によると、東は八幡橋から地山鼻を通り町裏から中土手を通り、松原道を経て岡ノ下橋に至るとあり、西国街道が東西に通っていました。江戸時代初期の五日市の町並みは光禅寺前に東西に並び「上土手」とも思しき浜堤に成立し、海老塩浜の感性で、西国街道は中土手に移りました。 |
|
 |
|
広島藩は、海老山(かいろうやま)の西一帯に塩田を開きました。
1881(明治14)年五日市村と海老塩村が合併して五海市村になりました。
1911(明治44)年海老塩浜の塩づくりが止められるまで塩がつくられました。
1911(明治44)年10月1日五海市村が村名改称の上、町制施行で五日市町となりました。 |
※資料によっては、1912(明治45)年には塩作りを止めることになったとあります。 |
|
昔社会科で習った塩つくりの工程を踏んで広島湾で塩を作っていたとしても何ら不思議ではないのでしょうが、わたしは、この地で塩を作っていたとはじめて聞いたとき広島藩でも作っていたのかとおもったのです。 |
2016年になりましたが、JR五日市駅自由通路にある“五日市まちめぐり散策路”という地図でここで取り上げた海老園塩浜堤防跡が残っていることを知り再び訪ねたのです。
その石垣と並行して走りJR山陽本線の踏切の名称が「古浜(ふるはま)第□踏切」と塩浜の名をとどめています。 |
16.07.21.裕・記編集 |