みゆき ばし
御幸橋・原爆被災説明板
  中区千田町の御幸橋西詰南側に広島市によって建立されている「御幸橋・原爆被災説明板」です。
1945(昭和20)年8月6日原爆の爆風で、御幸橋の石造の勾欄が双方とも倒れ南側は川中に転落。
宇品方面へ避難する罹災者で橋上は大混乱凄惨をきわめたそうです。
爆心地から≒2,300m
御幸橋・原爆被災説明板
 
爆心地から約2,300m
1945(昭和20)年8月6日、午前8時15分広島市の中心部上空約580mでさく裂した原子爆弾がもたらした膨大な被害によって、広島市の大半は瞬時に壊滅し、多くの被爆者が救護を求めて南へ、北へと逃れていきました。
この写真は、被爆後3時間を過ぎた(午後3時過ぎ)この地点を撮影したものです。
爆心地から南南東約2300m離れていた、ここ御幸橋西詰めの警察官派出所前には建物疎開作業中に被爆した中学生をはじめ、多くの被爆者が群がり、わずかばかりの応急手当を受けていました。
   松重美人氏撮影
松重美人(まつしげよしと:1913-2005)
広島県呉市出身。被爆当時、中国新聞社写真部員で中国軍管区司令部報道班員。
1945(昭和20)年8月6日翠町の自宅で被爆(爆心地より≒2,700m)、午前中に撮影したのが下記の写真(当日撮影5カットの内の一枚目)。2005年1月16日死去されました、享年92歳。
この御幸橋・原爆被災説明板は他の原爆被災説明板よりも大きく目立つので以前より設置されている事は知っていましたが、今(2003)年はじめて撮影しました。
2007年橋上で信号停車した時撮影し追加しました。
2015年久しぶりに撮影しましたので、この頁を再編集しました。
被爆75年の2020年は、コロナ流行の年でしたが、まだ流行前に久しぶりに撮影していました。
2021年10月27日NHKローカルニュースをみて、広島県被団協坪井直理事長が(10月24日に)亡くなっていたということを知りました。そして、この御幸橋原爆被災説明板に被爆して座り込んでいる坪井さんが写っていると云うことも知りましたので、最下段に坪井さんについて追記しました。
21.10.27.更新   15.07.18.再編集  03.08.04裕・記編集
  

03.07.28撮影
広島市中区千田町三丁目 (御幸橋西詰南側)

03.07.28原爆被災説明板の写真を撮影
(原爆被災説明板の写真を使用しています)

04.05.12.おりづるモニュメントに展示の写真を撮影
(御幸橋西詰北側の)おりづるモニュメントの中に展示してあった写真です
(原爆被災説明板が採用している画像と違った内容でしたのでこの頁で取り上げました)

07.05.08撮影

15.04.30.撮影

15.04.30.撮影

15.04.30.撮影

20.02.03.撮影
御幸橋西詰南側

20.02.03.撮影

20.02.03.撮影
上部:御幸橋被災説明板 下台座部分:初代・二代目御幸橋〔現在の御幸橋は三代目です〕

20.02.03.撮影
坪井 直(つぼい すなお:1925- 2021)
2000(平成12)年日本原水爆被害者団体協議会 代表委員、2004(平成16)年広島県原水爆被害者団体協議会理事長。
広島県安芸郡音戸町(現・呉市)出身。旧制広島高等工業学校卒業。
中学校の数学の教員。1986(昭和61)年広島市立城南中学校校長を最後に定年退職。
2011(平成23)年第23回谷本清平和賞受賞。2016(平成28)年5月27日広島市を訪問した米国オバマ大統領と平和記念公園にて握手し言葉を交わす。2018(平成30)年4月5日広島市名誉市民。
  関連頁:オバマ大統領広島での演説2016年

20.02.03.撮影
⇒が坪井さん。
1945(昭和20)年8月6日
下宿に荷物を取りに帰ろうと富士見町(爆心地から≒1,200m)で被爆。
顔や両腕に大やけどを負いながら生き延び、御幸橋(爆心地から≒2,300m)西詰の警察官派出所前で救援を待っていた。
その後(広島湾内)似島の野戦病院に収容された。
のち、母親が見つけ音戸町に連れ帰ったが、9月25日まで意識が戻らなかった(そうです)。



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