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廿日市市宮島町の駒ヶ林で起こった厳島合戦での戦いをこの頁で取り上げました。 |
駒ヶ林は弘治元(1555)年10月1日寅の刻(午前四時)にはじまった厳島合戦は、毛利軍の奇襲攻撃が功を奏し、忽(たちま)ちにして大勢は決しました。
陶軍の勇将・弘中三河守隆包(たかか:1521-1555)は、主君陶晴賢(すえはるかた:1521-1555)を大元へ落とした後、僅か百騎ばかりの兵と共に弥山に登りここにたてこもりました。
これを追ってきた吉川元春(1530-1586)以下の毛利方は、数倍の軍勢でこれを取り囲んだが、隆包の必死の働きにどうしても討ち取ることができず、やがて柵を作り兵糧攻めの作戦をとりました。このためさしもの勇猛なる隆包もついに力尽き、二日後の10月3日嫡子・中務と共に井上源右衛門らによって討ち取られました。
こうして史上名高い「厳島合戦」は終わりを告げたのです。 |
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厳島合戦(いつくしまかっせん)、厳島の戦い(いつくしまのたたかい)ともいう |
1555(天文24)年10月1日、主君大内義隆(1507-1551)を殺して領国を奪った陶晴賢(すえはるかた:1521-1555)を毛利元就(1497-1571)が厳島に敗死させた戦い。
毛利氏発展の基となる。陶軍兵力は2万とも3万ともいわれ、毛利軍兵力は4千から5千といわれています。嚴島合戦は、日本三大奇襲戦の一つに数えられているそうです。 |
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2008年厳島合戦の頁を編集した時に、弘中軍が滝小路から大聖院へそして駒ヶ林(龍ヶ馬場)へ退いた事を知りましたが、今回駒ヶ林に上った時に説明板が設置されていましたので、改めてここで戦が繰り広げられたのかと思ったのです。 |
12.08.17裕・記編集 |