(泉岳寺)大石良雄、大石良金、原惣右衛門の墓

  東京都港区高輪の泉岳寺に建立されている「大石良雄の墓、大石良金の墓」と「原惣右衛門の墓」をこの頁では取り上げました。
赤穂義士解説
赤穂城主・浅野内匠頭長矩(1667-1701)は、士道を弁えぬ吉良上野介義央(1641-1702)の仕打ちに抗して刃傷に及びし咎により即日切腹を仰せつけられました。
家臣はこの処断に承服せず、筆頭家老・大石内蔵助良雄(1659-1703)を統領に四十七士が結束して主君・浅野内匠頭長矩の無念をはらすため元禄15(1702)年12月14日本所吉良邸に討ち入り主君の辱めを雪ぎ、その墓前に吉良上野介義央の首級を供へ成就を報告し、敢えて官に裁きを求めました。
義士一同は、12月15日夕刻、細川家(17名)、松平家(10名)、毛利家(10名)、水野家(9名)の四家に預けられました。
幕府は苦心の末、翌・元禄16(1703)年2月4日武士の体面を立て、切腹を命じました。直ちに主君の墓側(この地)に各々四家に分けて埋葬されました。
間新六の供養墓は他の義士の墓と一緒に建立されましたが、寺坂の墓は慶応4(1868)年6月に供養のために建てられたものです。また、いわゆる47士の他に、本人は討ち入りを熱望したものの周囲の反対に遭い討ち入り前に切腹した萱野三平の供養墓があります[明和4(1767)年9月建立]。したがって泉岳寺の墓碑は48あります。
広島二葉の里の聖光寺に寺坂吉右衛門が広島を訪れ、討ち入り成功を報告した時持ち帰ったという遺髪で、大石親子の供養墓が建立されています。また、圓隆寺には原惣右衛門夫婦の墓が建立されています。
そのような事で、機会があり泉岳寺を訪ねた時には、大石親子、原惣右衛門のお墓をお参りし撮影したいと思っていたのです。2013年になりましたが、お参りし撮影しましたのでこの頁が編集できました。
13.12.08.裕・記編集

13.09.15.撮影
東京都港区高輪2-11-1
(四十七士墓配置図)
大石良雄(おおいしよしお:1659-1703
江戸前・中期、赤穂藩浅野家の家老。通称、内蔵助。家老千五百石。赤穂浪士の首領。
1702年12月14日浪士四十六人を率いて吉良邸に討ち入り、主君浅野長矩の仇を討った。

13.09.15.撮影
大石内蔵助良雄墓 忠誠院刃空浄剣居士
大石主税(おおいしちから:1688-1703)
赤穂浪士の一人。名は良金。大石良雄の長男。部屋住。討ち入りの際、後門の隊長となった。

13.09.15.撮影
十三回忌碑 と 大石主税良金墓 刃上樹剣信士
大石主税良金墓
原惣右衛門(はらそうえもん:1648-1703)
江戸時代前期の武士。名は元辰(もととき)。播磨(兵庫県)赤穂藩士。四十七士のひとり。
藩主浅野長矩(ながのり)の切腹処分を江戸から第2陣使者として国元赤穂にはせ知らせる。大石良雄の補佐役をつとめ、仇討ちをはたした。1703(元禄16)年2月4日切腹。変名は和田元真、前田善蔵。

13.09.15.撮影

13.09.15.撮影
原元辰(通称・惣右衛門:1648-1703)
刃峰毛劔信士
堀部 武庸(通称・安兵衛:1670-1703)
刃雲輝剣信士



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