(泉岳寺)淺野長矩之墓、長矩夫人之墓

  東京都港区高輪の泉岳寺に建立されている「淺野長矩之墓、長矩夫人之墓」です。
赤穂城主・浅野内匠頭長矩(1667-1701)は、士道を弁えぬ吉良上野介義央(1641-1702)の仕打ちに抗して刃傷に及び、その咎により即日切腹を仰せつけられました。そしてここ泉岳寺に葬られました。
刃傷後捕えられ、陸奥一関藩主・田村建顕(1656-1708)の芝愛宕下にあった屋敷に預けられ、その後田村邸庭先の切腹場へと移され、幕府検使役の立会いのもと、切腹して果てました。
田村家から知らせを受けた浅野家家臣・片岡高房(1667-1703)、糟谷勘左衛門、建部喜六、田中貞四郎、礒貝正久、中村清右衛門らが長矩の遺体を引き取り、彼らによって高輪泉岳寺に埋葬されました。
長矩夫人(瑤泉院)は、三次浅野藩の関係で、広島県三次市の鳳源寺で遺髪塔を2008年訪ね頁を編集していましたが、浅野内匠頭長矩は直接的に広島との関係が無いので、ここ泉岳寺の墓の頁を編集したのが浅野長矩関連では(わたしは)はじめての頁でした。
13.12.08.裕・記編集

13.09.15.撮影
東京都港区高輪2-11-1  泉岳寺
浅野長矩(あさのながのり:1667-1701)
江戸前期の大名。播磨国赤穂藩主。内匠頭(たくみのかみ)。
1701(元禄14)年3月14日勅使接待役となったが、殿中で典礼指南の吉良義央(きらよしなか)に切りつけ、即日、切腹・除封の処分を受けた。

13.09.15.撮影
淺野長矩公之墓
*墓標の前の空間をみて(以前は)扉が付いていたのかなと思いました。(瑤泉院の墓には扉がありましたので)

13.09.15.撮影
冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士
瑤泉院(ようぜんいん:1669*-1714)     *Wikipediaでは1674(延宝2)年を採用しています
  1669(寛文9)年三次藩主浅野長治の娘(三女)として、三次に生まれる。
母は長治の側室・お石の方。名は阿久利(あぐり:阿久里、阿久理・とも表記)。夫・長矩の死後、瑤泉院と称す。
1676(延宝4)年7歳の時、幕府から赤穂藩主浅野長矩との縁組を許され、江戸へ向けて三次を出立、江戸三次藩今井下屋敷に入る。1683(天和3)年14歳のとき、16歳の長矩と結婚。美貌と天賦の才媛により琴瑟相和(きんしつあいわ)し正室の勤めを果たすが子宝に恵まれないまま、1701(元禄14)年32歳のときに江戸城松の廊下で夫の刃傷事件が起こり、屋敷を移って髪を落とし、名を寿昌院、後に瑤泉院の院号で余生を長矩並びに義士の菩提を弔い、義士の遺族に心を砕きその処遇に尽力した。1714(正徳4)年45歳三次浅野家下屋敷で死去。
没日から10日間三次では鳴物高声停止令(娯楽などをつつしむ)が出され、町ぐるみで喪に服したと伝えられているそうです。夫・長矩が眠る泉岳寺に葬られまた遺髪は故郷三次の父・長治建立の鳳源寺境内に安置された。

13.09.15.撮影
長矩公夫人之墓

13.09.15.撮影
(諡号)瑤泉院殿良瑩正燈大姉(ようぜんいんでんりょうえいしょうちょうだいし)



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