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中区国泰寺町の雑魚場町疎開地跡に建立されている「廣島女子等師範學校・附属山中等女學校殉國學徒之碑」です。
※この「殉国学徒の碑:広島女子高等師範学校・附属山中高等女学校」碑は、“殉国学徒の碑:広島縣立第二高等女学校」碑と同じ台座石に並んで建立されています。
※建立は1952(昭和27)年8月6日、建立者は(同窓会の)橘香会・遺族会(と碑に刻まれています)。 |
碑建立当時、町内会・荒谷輝男会長が建物疎開で亡くなった生徒のための慰霊碑建立を各校に呼びかけ、学制改革で廃校になった山中高女、第二県女が呼びかけに応じ、二つの殉国学徒の碑が並んで建立されたそうです。 |
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爆心地から≒1,200mのこの地(旧町名・雑魚場町)で建物疎開作業中に被爆し、教官4名生徒382名が死亡したとこの殉國學徒之碑に刻まれています。
この碑の根際に建立されている「慰霊碑」には、広島女子高等師範学校生徒7名、同附属山中高等女学校教官生徒387名となっています。 |
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碑銘をわたしは、「広島女子高等師範学校・同附属山中高等女学校職員生徒慰霊碑」としていますがこの頁標題には「廣島女子高等師範學校・附属山中高等女學校殉國學徒之碑」と碑に彫られた銘を採用しました。 |
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広島市の資料では、「広島女子高等師範学校・同附属山中高等女学校殉国学徒の碑」としています。 |
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2003年撮影してこの頁を編集しました。
どうして、同じ台座に建立されているのかとよく理解できずに撮影し頁を編集しいましたが、後日訪ねた「廣島女子高等師範學校記念碑」の碑文を読んで広島女子高等師範学校のことが少しわかりました。 |
2015年久しぶりに訪ね頭を垂れた後撮影しましたので、この頁を再編集しました。
今回碑をみた時、字体が違っている事に気が付いたのです。碑側面をみると両碑とも書家として有名な井上桂園の書である事がわかりましたので、碑面を拡大してみました。 |
15.04.06.再編集 03.04.10裕・編集 |
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03.04.07.撮影 |
広島市中区国泰寺町1‐9‐30 荒神堂(雑魚場町疎開地跡) |
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03.04.07.撮影 |
「広島県立広島第二高等女学校殉国学徒の碑」と「広島女子高等師範学校・附属山中高等女学校殉国学徒の碑」 |
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碑靈慰 |

03.04.07. 撮影 |
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15.02.26.撮影 |
遺族会建之 |
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15.02.26.撮影 |
「慰霊碑」 二校の「殉国学徒の碑」 「荒神堂」 |
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15.02.26.撮影 |
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15.02.26.撮影 |
「原爆記念 雑魚場町疎開地跡」石碑が建っています |
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敬称を略しています |