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中区東千田町の現在・放送大学に建立されている「広島大学原爆死没者追悼之碑」です。 |
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1971(昭和46)年千田町工学部に建立され、1982(平成10)年東広島への移転に伴い移設された“広島大学工学部慰霊碑”があります。 |
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関連頁:広島大学工学部慰霊碑 |
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広島大学工学部慰霊碑は、原爆死没者と原爆以外の物故者も含んでの慰霊碑です(ので、ここで取り上げた原爆死没者追憶之碑が建立されることになったと思うのですが)。 |
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1972(昭和47)年3月に発足した広島大学原爆死没者慰霊行事委員会では、その主要事業のーつとして原爆死没者追悼之碑を1974(昭和49)年建立しました。
追悼之碑の内部に、広島大学及び前身校の原爆死没者名簿が納められており、関係者の申し出により毎年書き加えられているそうです。
追悼之碑の設計は(当時)佐藤重夫工学部教授)で、『原爆の重大な犠牲となられた悲しみは推し測ることも出来ない重いことで、動かしえない現実に、我々は本当に静かなご冥福を祈る気持ちでいっぱいである。したがって静かにどっしりと安定した、無限の自然が造りあげた重い重い大きな石で、しかも自然の美しい形のものがどんな人工の碑よりもこの原爆碑に最もふさわしく、永遠に祈りの碑となるものと私は思った。裂き砕かれた鋭い大小の割石を下部に乱積にしたものは、世の矛盾、悲しみ、争いを連想して、碑石の底部に押しつぶして積むことにしたものである。』という意図が込められているそうです。 |
昭和20(1945)年8月6日広島に原子爆弾が投ぜられた。一瞬、莫大な破壊を生じ、無数の人命を奪ったのみならず、その被害は長く今日に及び、身心の傷痕なお癒ゆることがない。本学前身諸学校のうち、廣島文理科大学、廣島高等学校、廣島工業専門学校、廣島高等師範学校、同附属中学校、同附属国民学校、廣島女子高等師範学校、同附属山中高等女学校、廣島師範学校、同附属国民学校、廣島県立医学専門学校、廣島市立工業専門学校は当時市内に所在し、直接被災した。その教職員並びに学生生徒児童は学校の内外において死傷し、また後遺症により没した者多きを数える。
爾来星霜30年を経て被爆により死没せられた人々を悼む心吾人において益々ふかく、核兵器を憎み、その完全な廃絶と、世界恒久の平和を願うこと切なるものがある。ここに有志相はかり、建碑して追悼の意を表するとともに、廣島大学が人類平和の確立に敢然寄与すべきふかい学問的責務を負う所以を永久に銘記する。 昭和49(1974)年8月6日 |
廣島大学学長 飯島宗一撰 元廣島大学教授 井上政雄書 |
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この地が広島文理科大学・広島高等師範(戦時中は一部中国地方総監府として接収されていた)だったところから「原爆死没者遺骨埋葬の地碑」(別頁で編集)がこの碑の近くに建立されています。
現在広島大学が西条(東広島市)に移転して学生の街だったこの界隈はさびしくなっています。 |
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2001年撮影してこの頁を編集しました。
今(2006年)回日赤病院での待合時間の時に久しぶりに立ち寄ってみました。よくよく見ると佐藤重夫設計とこの追憶碑の設計者の名前が刻まれていました。 |
碑文には注目していましたが、碑文板をみるとその書が井上政雄とありました。書家として有名な方でしたので、画像を拡大してみました。 |
2015年久しぶりに撮影しましたので、掲載画像を見直し、追加してこの頁を再編集しました。 |
15.07.08.再編集 01.10.30裕・編集 |