興安丸・錨

  三原市城町の内港東公園に展示されている「興安丸の錨」です。
興安丸(こうあんまる)           昭和54(1979)年9月     三原浮城ライオンズクラブ
昭和11(1936)年3月14日三菱重工(株)長崎造船所で起工
昭和11(1936)年10月2日同造船所で進水
      鉄道省所有:7,103総トン、最高速力33ノット
      旅客定員1,746名、全船冷暖房装置
昭和12(1937)年1月31日関釜連絡船として就航
      下関と釜山間122海里を7時間30分で運航する
昭和20(1945)年4月1日山口県蓋井島付近で触雷航行不能になる。
昭和20(1945)年6月30日関釜連絡航路閉鎖になる。
昭和20(1945)年8月15日太平洋戦争敗戦終結。
昭和20(1945)年8月31日占領軍より引き揚げ船第一船に指定され博多・仙崎-釜山間 
      往航は在日韓国人の帰国輸送に、復航は日本人の引き揚げにあたる。
昭和25(1950)年3月18日朝鮮郵船(後の東京郵船)に払下げとなり、同年8月から朝鮮戦争により
      国連軍に傭船され兵士や傷病兵の輸送にあたる。
昭和28(1954)年3月   外地から舞鶴へ引き揚げ輸送にあたる 初めは華北の泰皇島から
昭和28(1954)年11月にはソ連ナホトカから昭和32(1957)年8月1日にはカラフトから、この日をもって
      戦後の引き揚げは完全に終止符が打たれる。
昭和32(1957)年8月   東洋郵船に譲渡され東京湾周遊を行い東京の新名所となる。
昭和35(1960)年     ベトナム引き揚げに従事する。
昭和45(1970)年     横須賀から三原まで曳航される
                昭和史のもっとも激動の時期を行きぬいた「興安丸」は三原市木原町沖において
                解体され波乱の生涯を終える。
船長・玉有勇氏の願いと同船で帰還した多くの戦友同胞の感謝と懐旧の念として錨と船銘板を解体の地に保存し永くその歴程をとどめることにしました。
* 全長:124.1m。全幅:17.4m。機関:ボイラー8缶/蒸気タービン2基、2軸推進。出:17,645hp。
航続距離:8,500海里(=15,740km)。貨物積載量:3,174t。
JR三原駅から記念碑などが建立されているだろうからと三原市役所に行こうとして、マリンロードを通り国道2号線の所に来た時、やっさ踊りの像が見え、その近くにこの錨が見えましたので、地下歩道を通って2号線を渡って「やっさ踊り・像」を撮影したあと、この興安丸・錨を撮影しました。
説明板を読むと引き揚げ船で活躍した事を知りました。
2006年京都府舞鶴の「舞鶴引揚記念館」を見学した時に“興安丸の展示模型や時鐘”を見た事を少しばかり思いだしましたが確かにという自信はありませんでしたので帰宅後編集の頁をみてやはり興安丸の模型だったので、この頁の下段に掲載しました。
説明板にある興安丸要目とWikipediaに違いもありましたが、説明板にない項目については*の欄にWikipediaを参照してこの頁に記述しました。また、「舞鶴引揚記念館」でみた要目とも違っているようでした。
関連頁:(舞鶴引揚記念館でみた)興安丸時鐘(複製)
12.11.13.裕・記編集

12.10.16.撮影
広島県三原市城町3  内港東公園

12.10.16.撮影

12.10.16.撮影

12.10.16.撮影

12.10.16.撮影
         興安丸(こうあんまる)
所属:鉄道省・朝鮮郵船(東洋郵船)。建造年:昭和12(1937)年・長崎造船。総トン数:7,077屯。
登録寸法:127.5m×17.4m。 船の種類:貨客船。
主な引揚地:ナホトカ・真岡(南樺太まおか)・泰皇島(中国河北省しんこうとう)・塘沽(中国天津とうこ)
引揚乗船者数:17,891名
関連頁:舞鶴引揚記念館

06.08.11撮影
京都府舞鶴市の舞鶴引揚記念館でみた興安丸の模型を撮影したものです



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