三桝正典作:頼山陽居室・襖絵

  中区袋町の頼山陽居室の襖絵“クロガネモチ図”です。作者は、三桝正典です。
※展示期間は2014(平成26)年11月13日~2015(平成27)年2月8日となっていますが、資料館内でみることができたりするのではと思い取り上げました。
※2018年5月16日見学した時、ここで紹介した襖が(展示)使用)されていました。
頼山陽居室・襖絵
  日本外史とクロガネモチ
頼山陽史跡資料館にある頼山陽居室。この居室〔1945(昭和20)年8月6日(爆心地から≒410mで)原爆によって焼失したため、1958(昭和33)年に復元されました〕は、1800(寛政12)年当時21歳の頼山陽(1780-1832)が脱藩の罪によって幽閉された部屋です。
この居室で山陽は代表作の歴史書「日本外史」の執筆に着手しました。
また、居室のある庭園内には、被爆樹木のクロガネモチが育っています。被爆当時根株だけを残して焼けましたが、5年後に株から芽が生えてきて今では5メートルを超えています。
  三桝正典(広島女学院大学教授:美術家現代美術。1960-  ;広島出身)
初めて居室とその傍に立つクロガネモチを見た時、居室から放たれた頼山陽の力とクロガネモチの持つ生命力に不思議な繋がりを感じた。
その場が持つ力なのであろうか。
その場所から現実に歴史的な書物が生まれ、不可能と思われた命が再生された。
その不思議な繋がりをたどり、クロガネモチを居室の中に描いてみた。不思議な力を再び部屋の中に吹き込むように、頼山陽の魂を再び呼び起こすように、8枚のふすまに1本のクロガネモチを描いてみた。頼山陽居室襖絵を通し、そのつながりの不思議さを感じていただけたらと思う。
日本外史(にほんがいし)
頼山陽著の歴史書。22巻。
1827(文政10)年松平定信〔1759-1829:陸奥白河藩主、老中。1812隠居〕に献じた。
源平両氏から徳川氏まで政権が武門に帰した由来を、史論をはさみつつ精彩な筆致で明らかにした。軍記物に基づいて記してあるため誤りも多いが、幕末~明治期に広く読まれ、尊王論を鼓舞した。
2004年被爆樹木クロガネモチを撮影して頁を編集してから随分経ちましたので2015年撮影しようと立ち寄ったのです。
クロガネモチを見ようとしたとき、「頼山陽居室襖絵」の説明板に気が付きました。
居室に展示される期間は2014(平成26)年11月13日~2015(平成27)年2月8日までとなっていましたが、撮影は3月でしたがみることができましたので撮影しました。頼山陽関連頁を見直しているいま(2016年)になりましたがこの頁を編集しました。
 16.03.15.裕・記編集

15.03.21..撮影
広島市中区袋町5-15    頼山陽居室(襖絵説明板)

15.03.21..撮影

15.03.21..撮影

15.03.21..撮影

15.03.21..撮影



「頼山陽関連」編


野外彫刻など」編



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 旧山陽記念館の手すり
 三桝正典作:頼山陽居室襖絵
 奈部雅昭作:頼山陽先生像


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