十竹山田先生之碑
  中区南千田町の修道学園に建立されている「山田十竹先生之碑」です。
徳川幕府の末期、尊王攘夷の議論が起こり国内は騒然としていました。このような時世でも教育に心を配り、人として行うべき道を明らかにすることに励み、自ら信じる節操をまもった十竹山田先生(1833-1901)の為された事が必ずしもはっきりとは成果として示していないがその功績を忘れることはできません。
先生は、名を浩。字を養吉、号を十竹といい、旧広島藩士の父・今井七郎兵衛の第3子でした、のちに山田家を嗣ぎました。
先生は、11歳で藩学問所儒官・坂井虎山に師事、金子霜山に漢学を授かり嘉永元(1848)年16歳で藩校の句読師に推挙されました。
慶応4(1868)年家督(20石)を継ぎ儒者職に任じられ、明治3(1870)年修道館と改称した学問所・寄宿寮塾の塾頭になりました。
明治4(1871)年廃藩置県とともに修道館は廃止になりました。
1874(明治7)年東京海軍兵学校教官(漢学を教授)に任命されました。
明治14(1881)年浅野長勲は浅野学校を修道校に改組、先生を校長に迎えます。
明治19(1886)年浅野家から修道校を譲渡され八丁堀の自邸に修道学校を開設。
しかし、明治33(1900)年漢学のみの夜学校に後退、学校再建計画途中の明治34(1901)年8月26日死去享年69歳、城南比治山に葬られました。従六位を授かりました。      
 (碑文を口語文にしたものの要約です)
先生は天性、心が広く、おおらかで、道議を重んじ、物事に執着することなく、欲が少なく、父母によく仕えて孝養を怠ることはなかった。書生の貧しい者には私財を投じて助け、常に教育を自らの任務と心掛け、深く思いを寄せていたのは尊王の大義でした。
著書は「日本志略」「明治小学」「尺木集」「十竹遺稿」「暗誦事類」などです。
また、明治4(1971)年「日注雑記」を刊行したのは広島新聞紙のはじめとなっています。この頃門人が相談して先生の業績を石に刻んで永久に伝えたいと、わたし(佐藤正)に碑文を依頼して来ました。
わたしは先生の門下ですので、辞退できない立場ですので概略知っていることを述べ連ねて銘としました。
銘は「王室を尊敬し、以て大義を明らかにし、人材を陶鋳し、以て文治を輔く、昭昭名無く、冥冥志有り、潜微幽光百世既きず。」
海軍中将従三位勲一等功二級 加藤友三郎 篆額(てんがく) 1861-1923。後の総理大臣
宮中顧問官陸軍少将従三位勲一等功四級 佐藤正 撰文 1849-1920。後の広島市長
海軍中将正四位勲三等功三級 齋藤孝至 1860-1927
資料は、修道中学・高等学校前校長畠眞實先生が碑文の口語訳されたもので、修道高校出身の土井淳夫さんに教えていただきました。
今(2009)年6月交流ウォークで訪ねたときに校門の南側に建立されている石碑をみたのです。いままで何度か訪ねているのにこの大きな石碑に気がつかなかった迂闊なわたしでした。
碑銘は十竹山田先生之碑と読め、1914(大正3)年建立の石碑で、1938(昭和13)年に建立されている十竹先生の胸像よりも先に建立されたものでした。
碑文が薄くはなっていましたが、わたしには読めませんでしたので、修道高校出身で「地球平和監視時計」の発案者である土井淳夫さんに教えを請いましたところ、前校長の畠眞實先生が碑文を口語訳されたものがあるということで、掲載を許可していただきましたが、(長文でしたのでわたしが勝手に)要約させていただいたものを掲載しました。
 09.11.21裕・記編集

09.06.27.撮影
広島市中区南千田町8-1 修道学園
「十竹山田先生之碑」篆額は加藤友三郎

09.06.27.撮影
大正3(1914)年4月門人建立 石工 山本九十郎



「広島ゆかりの人たちの石碑など」編



広島ぶらり散歩
    (修道学園関連頁)
修道中学校職員生徒慰霊碑
(構内建立)「歴史に生きる」碑
(玄関前建立)浅野長勲・頌徳碑
吉田正浪作:山田十竹先生胸像
(正門根際建立)十竹山田先生之碑
(構内に移設)修道学問所之蔵
(比治山墓地)山田養吉(十竹)の墓


inserted by FC2 system