介菴梅園翁之碑

  東区山根町の聖光寺境内に建立されている「梅園介庵翁之碑」です。
梅園介庵(うめぞのかいあん:1815-1888)
広島藩の学者、明治前期の教育者。名は昭卿。字は造甫。通称:順治郎、のち順造、晩年は梅叟と称した。父は平木彦兵衛、母は吉田氏。
16歳で広島藩学問所の句読師。1862(文久2)年藩儒・文二郎没後梅園家を継ぐ。朱子学、経学に秀で藩儒となるが、国学、天文測量術、武芸、軍学も秀でていた。
1865(慶応元)年江戸詰藩邸学館(講学所)を監督、1869(明治2)年藩命師員。翌(1870)年三原学校監督。廃藩後、修道館(学校)教授(しかし旧藩士の道徳の退廃を憂い教育に専念)1885(明治18)年中島本町に漢学学校「麗澤學校」開校(子弟の教育にあたる)。廣島新川場町本照寺に葬る。
*義父を丈二郎としていましたが、“広島県続儒者伝”には文二郎とありましたので変更しました。
聖光寺は、二葉の里歴史散歩道にあるお寺ですので、何度か訪れていますが、今(2009)年交流ウォークの時、墓苑の方まで行った時に目にした石碑でした。その時は撮影しただけでしたが、帰宅後調べると広島藩の藩儒だったことがわかり資料から上記のような経歴もわかりました。
2022年になって広島護国神社の筆頭祭神が高間省三命であることを知り、ここ聖光寺に高間壮士之碑が建立されていることを知り、撮影に出かけようと思ったのです。
2009年この介菴梅園翁之碑を撮影した時に、高間壮士之碑も根際に建立されていたので撮影だけはしていましたが、それ以上調べようとはしていなかったので、改めで撮影に来たので、この碑との位置関係もわかるようにと撮影しましたので、この頁を更新しました。
22.02,26.更新   09.05.16裕・編集

09.01.17撮影
広島市東区山根町29-1(聖光寺)

09.01.17撮影

09.01.17撮影

09.01.17撮影

22.01.20.撮影
“高間壮士之碑”        「梅園介庵翁之碑」 “原道卿君之碑”

22.01.20.撮影
2009年には無かったフェンスが設置されています(イノシシの被害があるためだそうです)

22.01.20.撮影
“原道卿君之碑(裏側)”  「梅園介庵翁之碑(裏側)」



「広島ゆかりの人たちの石碑など」編


「牛田・二葉の里附近」編



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聖光寺
  (現在の)大石内蔵助父子供養墓
  (移設前)大石内蔵助父子供養墓
  (聖光寺の)判じ文字(吾唯足知)
  (聖光寺の)盥漱石
  (境内の)霊水・瑞泉
  (境内建立)梅園介庵翁之碑
  (境内建立)原道卿君之碑
  (境内建立)高間壮士之碑
  (境内建立)木原松桂翁之墓
  (境内建立)栗本軒貞国歌碑


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