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東区山根町の聖光寺境内に建立されている「木原松桂翁之墓」です。 |
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聖光寺のweb siteなどを参照すると木原松桂については、
『木原松桂翁は、安永5(1776)年(現・東広島市高屋町)杵原西本に生まれるが、幼時に母親と生別し母を慕う気持ちは募るばかりであった。広島に出て医を業としながら、四国までも母を捜索するが見つからない。47 歳の時、夢に出てきた母の言葉の「よなご」を思いだし、伯耆国弓ケ浜に尋ねる。遂に思いは通じそこで母の墓を発見する。その孝義篤行は藩の表彰するところとなる。
吉田松陰(1830-1859)はこのことに感激して松桂翁の書をもらい受け、松下村塾の壁に掲げ、常に自分の修養と塾生の訓育の拠所としたのである。』
☆書とは、木原松桂翁筆「三餘読書七生滅賊」。 |
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(さんよどくしょ)
三餘読書: |
人生には三つの余りがあり、その余りを無駄にせず学問(読書)にはげめよ」。
「冬、これは一年の余り。夜、これは一日の余り。陰雨は一時の余り。 |
(しちしょうめつぞく)
七生滅賊 |
「七生」は七度生まれ変わるということで「永久」を意味します。
「滅賊」は尊王に背いた人間を賊といい滅するという尊王思想。 |
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聖光寺のweb siteを見ると、ここで取り上げた「木原松桂翁之墓」の紹介もあったのです。
広島護国神社の筆頭祭神・高間省三命に関する「高間壮士之碑」を撮影しようと計画していたので、広い墓苑ですが、探すことができれば「木原松桂翁之墓」も撮影しようと思っていました。
墓苑中央に建立されている“栗本軒貞国歌碑”を撮影して、後側右手に行った処でたまたま出合ったのがこのお墓でしたので撮影できました。
墓石に没年が刻まれていないかみましたが、刻まれていないようでしたので没年はわかりませんでした。 |
22.03.01.裕・編集 |