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呉市広大新開の広公園に建立されている「本勝太郎翁頌徳碑」です。
*広地区自治会連合会が昭和36(1961)年3月建立、碑文は神谷伊津造撰文です。
題字は、藤音得忍(浄土真宗本願寺派宗会議長:1894-1972)書 |
略伝 (わたしが読んだ大要ですので碑文通りではありません)
翁は、栄助の二男として明治7(1874)年4月13日広村長浜に生まれました。16歳より土木建築を業とし、明治29(1896)年台湾に進出、後年の基礎を確立。明治39(1906)年呉市に帰り業勢を拡張し、主力を朝鮮、満州開発に注ぐ、大正14(1925)年株式会社松本組を設立、社長就任。この(1925)年9月貴族院議員に送出、終戦後退任。
大正11(1922)年芸南電軌株式会社創設、社長。昭和10(1935)年6月呉市長。昭和34(1959)年2月東京にて病歿。正四位勲三等。 |
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松本勝太郎 (まつもとかつたろう:1874-1959) |
明治~昭和時代の実業家。
1890(明治23)年郷里の広島県呉に土木運輸鉱山業の松本商会(のち松本組)を設立、国内はもとより朝鮮,満州にも事業を拡大した。1923(大正12)年広島瓦斯電軌社長。1935(昭和10)年6月~1936(昭和11)年9月呉第12代市長。1925(大正14)年9月~1947(昭和22)年5月院廃止まで貴族院(多額納税者)議員。1959(昭和34)年2月2日死去。 |
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今(2017年)回広公園を訪ねたのは、公園内に建立されていると資料で知った「頼山陽文学碑」を撮影することでした。
広い公園でも端からぐるっと公園を回れば探せるだろうとたかをくくっていました。最初に出合ったのが「賀谷侑翁頌徳碑」でした。L字に回ったところでここで取り上げた「松本勝太郎翁頌徳碑」をみました。
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最初に見た「賀谷侑翁頌徳碑」と同じようなデザインの碑でしたので、横で戦前に建立されている(藤田・岩西・大洲三君)頌徳之碑のような形式の碑ではなく、戦後はこういう形式の碑にしようという意思を感じながら撮影しました。
戦前に活躍したこの松本勝太郎についてわたしは知らなかったのですが、碑文を読み、貴族院議員であり、呉に市内電車があったことを思い出させる人物でした。 |
17.06.30.裕・記編集 |