せいしんだいとくしょうとく
誓真大徳頌徳碑
  廿日市市宮島町大町の光明院付近の広場に建立されている「誓真(せいしん)大徳頌徳碑」
碑文のあらまし     ※誓真さん没後200年・遺徳を偲ぶ会実行委員会2000(平成12)年の訳文を参照しました。
仏教に帰依する者は金銀を施して、寺院を造立し、堂塔を修理し、それを功徳とする。仏の道を知らずして造寺修塔を知らない者には功徳はないのであろうか、そんなことはない。厳島の誓真大徳は、みんなに竹木で器具を造ることを教え、島の人たちが生活できるようにし、井戸を掘り町並みを整えて賑わいをもたらし、神社の霊験を高めた。この功徳は、造寺修塔に倍するものである。
誓真大徳は、姓を村上氏といい、伊予務司城主村上頼冬を先祖とし、家族に理解を得られないまま、広島大工町で米穀商を営んでいた。ある夜、婦人がやっき来て、衣服をもって米に代えてくれるように頼んだ。その衣類を確かめてみるとまだ温かさが残っている。その理由を聞くと、明朝炊く米がなく、子どもの眠っているのを見計らって着ている衣類をはぎとって来たという。誓真大徳は、世情がひどく冷酷になり、子どもや女性がこのように生きているのを哀れみ悼んで、衣服を返し米を与えた。そしてその夜秘かに家を出て厳島に渡り、光明院の了単上人のもとで得度した。時に25歳であった。
神泉寺に住んで修行を重ねていた。誓真大徳は匠の心得があり創意工夫にとみ、彫刻が得意で、作った木魚は音の響きがよく、自ずと人々の知るところとなった。また、厳島は霊験あらたかな神社があり、名勝地であったが、平地が狭く町の人たちの生活は成り立ちにくかった。そこで、誓真大徳は人々に山に入って木を採り、柄杓・箱・茶道具・酒器などを作ることを教えた。それらは、店に並ぶと男女を問わず来遊する人たちの目を眩まし、みんなその技巧の細やかなことを悦び、争って買って帰り、進物にしていた。こうして厳島細工が広く知れわたるようになり、1100戸の人たちは機織りや耕作をしなくても生活が豊かになった。また、島は飲料水に乏しかった。井戸を掘るには巨額の費用が必要であったが、各戸から喜捨を乞い、その経費に充てるべく、毎日托鉢して回った。町の人たちもその誠意に感心し、蓄えを出しあってその費用にした。井戸は10カ所完成し、今なお誓真釣井として称えられている。
さらに島は急峻な崖に囲まれて町ができ、道路には高低があり歩きにくかった。そこで、来遊する人たちを快く迎えることはできないといって、崖を削り市街地を整然とし、溝は石で覆った。道の上り下りは、海山の景色を見る人たちの眺望に奥行きを与え、また住んでいる人たちにはこの上なく便利になった。広島藩藩主は、嘉んで褒美を与えられ、また「芸備孝義録」に記載するように命じられた。
寛政12(1800)年8月6日亡くなられた。仏門には入られて35年、亡くなる前4日に広島の生家を訪ね、あと4日しか生きられないといって別れを告げられたが、みんな信じなかった。しかし、その日になると忽然と亡くなりみんな驚いた。また神泉寺には箱が3個あり、その中には葬具が備えてあった。
今年100年忌にあたり、町民が光明院に集まって追慕の法要を営んだが、みんな今日生活ができるのは、大徳の徳のおかげであると言い、後の世の人のために誓真大徳の事業を記した碑を建て、誓真大徳頌徳碑とした。
明治31(1898(年歳次戊戌3月吉日 仙台 岡千仭撰文   昭和12(1937)年9月9日建之 内田晴耕書
宮島にゆかりの誓真さんを調べているとこの誓真大徳頌徳碑が建立されている事を知ったのです。
訪ねてみようと「宮島の案内絵図」をみながら小高い丘の上に建立されていたこの碑にやっとたどり着きました。
誓真さんの大徳のおこぼれがないかと下種なことを考えながら、出た汗を拭き眼下の厳島神社・五重塔や千畳閣などもみたのでした。
わたしには碑文が読めませんでしたので、「誓真さん没後200年・遺徳を偲ぶ会実行委員会」の資料をまるまる参照し、今(2010年)回追記しました。
というのは、安佐北区・可部でみた「佐々木星峡先生寿碑」の撰文が岡千仭だったことで、この「誓真大徳頌徳碑」の撰文が岡千仭だったことを思い出したからです。
10.07.18更新   04.09.16裕・編集
    関連頁:(可部明神社の)佐々木星峡先生寿碑

04.09.08撮影
廿日市市宮島町大町の光明院のそばの小高い丘の広場

04.09.08撮影

04.09.08撮影
碑表面(海に向っての面)
誓真大徳頌徳(だいとくしょうとく)碑
頌徳(しょうとく)=徳をほめたたえること。
碑裏面
明治31(1898)年歳次戊戌3月吉日 仙台 岡千仭撰文
昭和12(1937)年9月9日建之 内田晴耕書
おか せんじん:
     (ちたて)

岡千仭:
(1833-1914)
漢学者。仙台藩士・岡蔵治の五男。
七歳の時(仙台)藩校養賢堂に入る。江戸に遊学、1852(嘉永5)年昌平黌に入学。その後、大坂の双松岡塾開塾に学ぶ。1867(慶応3)年仙台にもどり、養賢堂教授。
明治維新後上京、大学中助教に任官。1872(明治5)年文部省・十一等出仕。東京府書籍館幹事。1881(明治14)年(病気)退官。私塾「綏猷堂」経営、全国からの子弟を教育。
こうみょういん
光明院
浄土宗に属し、戦国時代、以八上人によって建立された。厳島は14、15世紀頃から、内海の要港としてにぎわい門前町が発達した。これまで厳島神社に関係をもつ寺院はあったが、以八上人は町家の人達を教化する目的で来島し、念仏を勧め多くの信徒を得た。鎌倉時代末期の木造阿弥陀如来立像、絹本紺地金彩弥陀三尊来迎図(以上国指定重要文化財)を所蔵する。この寺の裏手は同じく浄土宗の道場坊神泉寺の跡であるが、天文18(1549)年堪阿弥が再興し、昼夜時刻を知らせたので時寺と呼ばれ親しまれた。天明・寛政の頃(18世紀末)島内諸所に井戸を掘り宮島名産の杓子を創始し民生にとくした誓真は神泉寺の番僧であった。



「安芸の宮島」編



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