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東区二葉の里に残されている「騎兵第五連隊関連碑」です。
騎兵第五連隊があったあったこの辺りの地は、1945(昭和20)年4月「第二総軍司令部」がおかれ、8月6日米軍による原爆投下で多くの軍人などが犠牲になりました。 |
1896(明治19)年第五師団の再編強化の一貫としてこの地に「騎兵第五連隊」が設置されました。
1890(明治23)年1月1個中隊を創設。*1)
騎兵隊そのものが実際の戦闘に参加したのは1914(大正3)年から四年間(第1次世界大戦中)であったそうです。
1945(昭和20)年4月7日大本営は、本土決戦体制として東日本の要として東京に第一総軍司令部、西日本の要として広島の(当時機能していなかった騎兵第五連隊内の)この地に第二総軍司令部の設置をきめ、大阪以西の陸軍・海軍を統括したそうです。 |
第二総軍司令部
爆心地から約1800m |
被爆時第二総軍司令部の四百数十名の将兵のうち百余名の方々が即死状態で亡くなったそうです。 |
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『原爆記』を書き残したおじさんは、騎兵隊に所属していたわけではなかったのですが軍馬に乗った姿が凛々しかったとお袋がよく云っていました。
お袋が被爆したのがここにあった建物だったそうで、その日剣道大会の表彰状を書いていたため、あの時間・1945年8月6日(月)8時15分建物の中にいたので直接的な原爆被害に合わなかったというものの倒れてきた(3階建の)建物の隙間で奇跡的に助かり、脱出した、その後建物は炎に包まれたそうで、被爆の惨状を目の当たりしながらも命からがら牛田の自宅に帰った・・・ |
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本土決戦で分断された場合、
独自の判断で対応できる中国総監府は、千田町の広島文理科大学内に置かれました。 |
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(れんぺい)
練兵: |
兵隊を訓練すること。調練。
練兵場(れんぺいじょう)=練兵をする所。れんぺいば。 |
(きへい)
騎兵: |
1)騎馬の兵。
2)馬に乗りその機動力を利用する兵種、またその兵。戦闘に参加したのは第一次大戦が最後。 |
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騎兵第五連隊がこの附近にあり第二総軍司令があった事も、原爆記の関係資料を調べるまでは知りませんでした。まして木々に囲まれた(見えないように囲ってあるような?)この碑がある事を何度も横の道路を歩いて、自転車で通った事があるというのに知りませんでした。
2003年この碑を撮影に行った時も場所がわからず、洗濯物を干しておられたご近所の奥様に尋ねたのですが、よくわからないわたしをわざわざ傍まで案内して下さったのです。 |
2005年からJR(旧国鉄)関連建物が位置していたこの辺りが更地になって来ています。
戦前は東練兵場、騎兵第5連隊が位置していた処であったそうですが、2003(平成15)年はじめてここを撮影したときとまったく変わってきました。 |
お袋が被爆した建物がどういうものだったのかわたしにはわかりませんでした。
「被爆者が描いた原爆の絵」(平和記念資料館データーベース)でみて東練兵場附近の被爆後の惨状はその絵々で(ほんのわずかなことでしょうがわたしにも)わかりましたが、建物は倒壊焼失しているのでわからなかったのです。
2012年おじさんの「原爆記」も取り上げている平和記念資料館平成23年度企画展で「第2総軍司令部の設置」というパネルが展示してありました。みると3階建ての建物でしたので、この1階で被爆したのであろうと思いました。
2014年のいまになりましたがその画像を掲載し、他の画像も更新し、この頁を再編集しました。 |
*1) |
「騎兵第五聯隊跡」碑の裏側をみることができなかったのですが、2014年11月裏側が見えるようになっていました。『自、明治二十三年 至、昭和二十年』(1890〜1945)ということがわかりましたので、上記に追記しました。 |
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二葉の里歴史の散歩道が整備され2014年みた時は、この関連碑の回りが整備され、関連碑も原型に近くはありますがコンパクトに整理されたようですので、別頁で編集することにしました。 |
18.03.09.更新 14.08.16再編集 03.08.02.裕・記編集 |