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広島市南区松原町の広島駅南口前広場に建立されている「広島駅原爆被災説明板」です。
*(南口)駅ビル建替え工事の仮囲いに「広島駅・原爆被災説明板」のパネルが貼り出されています。 |
広島駅・原爆被災説明板 爆心地から約1,900m |
人類史上最初の原爆投下により駅構内の屋根は崩れ落ち、正面玄関の前に建てられていた待合室も破壊しました。
駅舎は炎に包まれ全焼し、旅客や駅職員に多くの死傷者が出ました。
しかし、生き残った職員の懸命の努力によって復旧がすすめられ、翌8月7日に宇品線(※現在は廃線になっています)が開通、8月8日には山陽本線が部分開通し、被災者の避難や物資の輸送に大きな役割を果しました。 |
碑の写真は1945(昭和20)年10月頃 川本俊雄氏撮影 |
*米軍による原爆投下は1945(昭和20)年8月6日(月)でした。 |
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広島駅は1922(大正11)年8月我国最初の鉄筋コンクリート造の2階建駅舎として竣工しました。
被爆後の焼け跡から78名の遺体が収容され、駅職員926名中11名の方が亡くなり201名の重軽傷者をだしたといいます。
戦後も復旧使用され、増改築が行われてきましたが1964(昭和39)年4月解体されました。 |
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上記資料は「ヒロシマの被爆建造物は語る」他を参考にしました |
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17.06.23撮影 |
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わたしは、資料をみるまで、この広島駅・原爆被災説明板が駅前広場に設置されていることさえ知りませんでした。
ある時期は通勤のバスに乗るのにこの原爆被災説明板の根際を毎日通っていたというのにです。
お袋は、広島駅駅裏に位置していた二葉の里の軍施設(第二総軍司令部の建物)で被爆しました。 |
2006年になり被災説明板周りの状況を入れた画像を撮影しました。
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原爆被災説明板に採用された写真とは違う写真を見たので下段に掲載しました。
2012年2月3日〜7月9日まで平和記念資料館で「広島、1945-写真が伝える原爆被害-」が催されたのです。
その中で、8月6日被爆後の10月に故郷へ帰る人々をホーム側から、また仮に開設された改札口の写真を(共に)菊池俊吉氏が撮影された写真パネルが展示してありました。
原爆被災説明板は同じころ撮影された画像だけですので、展示パネルをフラッシュを焚かずに撮影していました。
2013年のいまになりましたが、被爆後の広島駅がわかる写真と思っていますので、追加し、頁を更新しました。 |
2014年広島駅改修工事が行われていた仮店舗が広場に建てられていた画像(案内所がまだ建ってないか像も)を撮影していましたので、画像を追加し、この頁を再編集しました。
2017年何時からだったかはっきりした記憶がないのですが被災説明板の隣にバス・電車の案内所が造られていることに気が付き撮影しました。
駅ビルの計画があり、この原爆被災説明板も、駅前広場整備で周りの風景も変わってくることだろうなと思い2019年撮影しました。 |
2920年3月末(南口)駅ビル閉館。2020年4月駅ビル建替え工事着手。
2021年2月1日駅ビル本体工事着手。2025年春新駅ビル開業予定。
2020年駅ビル建替え工事に伴い、広島駅・原爆被災説明板は撤去され2025年新駅ビル開業までは原爆被災説明板は見ることができないと(わたしは勝手に)思っていたのです。
2024年になりましたが、工事の仮囲いに「広島駅・原爆被災説明板」のパネルが貼りだされていたのに気が付いたのです。 |
24.03.21.更新 17.07.27.再編集 01.09.30裕・記編集 |
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2001年撮影当時 |
(ある時期には通勤で)広島駅南口を利用していたわたしでしたが、「広島駅・原爆被災説明板」が南口駅前広場に設置されていることに気が付くこともなく、設置されえいることも知りませんでした。
2000(平成12)年頃から原爆関連の慰霊碑を巡りだしていたので、資料で「広島駅・原爆被災説明板」が設置されていることを知り、2001(平成13)年ここ広島駅原爆被災説明板を撮影しました。その時は、被災説明板を中心に撮影していましたので、周りの状況に目をやることもなかったのです。 |
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01.09.27撮影 |
広島市南区松原町3丁目 (広島駅南口前広場) |
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(画像は、原爆被災説明板の写真を使用しています) |
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2006年・2014年撮影当時 |
2006(平成18)年「広島駅原爆被災説明板」設置の周りがわかるように撮影しました。
隣には“総合案内板”が設置されています。 |
2014(平成26)年「広島駅原爆被災説明板」設置の横の総合案内板は変わりありませんが、東側の広場に仮店舗が建てられています。 |
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06.04.15.撮影 |
広島駅南口前広場に設置されている原爆被災説明板 (総合案内板が横に設置されています) |
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14.09.17.撮影 |
2006年撮影当時と原爆被災説明板周りは変わっていないようですが |
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14.10.21.撮影 |
碑を裏側から撮影しました〔2014年(東側の)広場には仮店舗が建っています) |
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2017年・2019年撮影当時 |
原爆被災説明板の板が銅板から陶板に取り換えられたようで、画像が明るくなっています。 |
「広島駅原爆被災説明板」設置の横の総合案内板から“交通案内所”の建屋が建っています。(総合案内板撤去) |
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17.06.23.撮影 |
2017年原爆被災説明板の横にバス・電車案内所が建っています |
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17.06.23.撮影 |
旧広島駅の本館と駅前広場 1945(昭和20)年10月頃 川本俊雄氏撮影
(碑面があかるくなりました) |
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19.02.24.撮影 |
(休憩している人たちがいましたが、デジカメを構えようとしたわたしをみて避けてくれました) |
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19.02.24.撮影 |
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19.02.24.撮影 |
手前:原爆被災説明板 向側:高橋秀作“翔べ未来に向けて”(作品先の仮店舗が撤去されています) |
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19.02.24.撮影 |
原爆被災説明板の回りは待合の人たち、休憩の人たちの場になっているようです |
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2024年撮影当時 |
駅ビル建替え工事中なので、工事の仮囲いに「広島駅・原爆被災説明板」パネルが貼りされれています。 |
橋上駅になった広島駅2階の改札口がら1階の市内電車乗場やバス乗場に行くエスカレーターを降りたところの仮囲いです。
工事の進捗で仮の通路位置が変わることがありますが、わたしは建替えが始まった2020年から何度となく市内電車へバス停へとこの通路を通っていたのに、2024年まで迂闊なことに気が付かなかったのです。
彼岸の中日、墓参りをし、息子たちと昼食後、帰宅のバスに乗るまで少々の時間があったので、ここを通った時に気が付いたのです。
撮影している時、2人の外国人観光客がこのパネルに気が付き足を止め熱心に見ていました。 |
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24.03.20.撮影 |
駅ビル建替え工事中の仮囲いに貼りだされていました |
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24.03.20.撮影 |
多くの通行人が通っています |
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24.03.20.撮影 |
原爆被災説明板をパネルにしたものです |
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24.03.20.撮影 |
2人の外国人観光客が足を止め見ています |
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被爆後の旧広島駅の画像(原爆被災説明板ではありませんが) |
2012年中区中島町の広島平和記念資料館企画展「広島、1945-写真が伝える原爆被害-」で展示されていたパネルを撮影したものです。 |
原爆被災説明板で採用されている画像とは違うが写真を見みたので展示パネルを撮影したものです。 |
12.02.09.資料館企画展にて撮影 |
12.02.09.資料館企画展にて撮影 |
故郷へ
1945(昭和20)年10月11日〜20日
松原町、爆心地から1,900m
広島駅のプラットホームで列車を待つ人々。広島にいた部隊の多くは9月から10月にかけて動員を解除され、故郷へ向かいました。
撮影;菊池俊吉 提供:菊池徳子 |
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広島駅へ
1945(昭和20)年10月15日
松原町、爆心地から1,900m
広島駅も原爆で大きな被害を受けましたが、8月9日には山陽本線や芸備線の運行が再開されました。写真は10月に開設された仮設事務所。
撮影;菊池俊吉 提供:菊池徳子 |
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12.02.09.資料館企画展にて撮影 |
1番ホームの後ろの(被爆した)広島駅舎が写っています |
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12.02.09.資料館企画展にて撮影 |
山陽本線(下り):門司行、宇品線:宇品(うじな)行、芸備線:安藝矢口行、山陽本線(上り):東京行の貼紙がみえます |
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