広島市平和記念公園レストハウス (旧:燃料会館)

  現在、中区中島町の平和記念公園に残されている無料休憩所などに利用されている「(平和記念公園)レストハウス」です。
※2020年7月1日改修後の再オープンで、地階を含め各階が一般公開されました。
広島市平和記念公園レストハウスは、(現在)無料休憩所と観光案内所として利用されていますが、この建物は、大阪に本店を持つ大正呉服店が対岸の細工町から新築移転したものです。
当時(1929年当時)珍しかった鉄筋コンクリート造、モダンな建物で1階から3階はショーウィンドウのある売場で土足が可能で、屋上からは(広島)市内が一望できたそうです。
1944(昭和19)年6月、県燃料配給統制組合に買収されました。
1945(昭和20)年8月6日午前8時15分米軍投下の原子爆弾により、コンクリートの屋根は大破、内部も破壊炎上しましたが、地下室にいて奇跡的に生き残った1人をのぞいて全員が犠牲となりました。
戦後直ちに改修し、燃料会館として利用され、
1957(昭和32)年には広島市東部復興事務所がおかれ、都市の復興の拠点として貢献しました。
1982(昭和57)年からはレストハウス(無料休憩所と観光案内所)として利用されています。
2001年広島ぶらり散歩「平和記念公園」編の一頁として編集しようと撮影しました。
2006年撮影していた画像で頁を更新しました。
編集してから10年余り過ぎましたので、今(2014)年頁を見直し再編集しました。
2018年1月14日中國新聞などの報道で、改修計画を勧めていることを知りました。
『広島市は、平和記念公園内の被爆建物で、現在は観光案内所などとして使用しているレストハウスを、1月末で休館すると発表しました。
外観の保存のための補修や、耐震補強工事などを経て、来(2019)年12月に再オープン予定。
レストハウスは1929(昭和4)年、大正屋呉服店として建設された。鉄筋コンクリート造りの地上3階、地下1階で、当時としてはモダンなデザインだった。
爆心地からの距離は170m。被爆当時は燃料会館として使用され、出勤していた37人のうち、たまたま書類を取るために地下室に下りていた野村英三さん(当時47歳)以外は全員死亡した。
1957年広島市が買収。1982年からレストハウスとして使っている。
耐震補強やバリアフリー化を進めた上で、被爆前の中島町の写真や模型を展示する部屋を新設。観光案内所や休憩スペースを充実させる。地下室はできるだけ手を加えず保存するという。当初は外観、内観とも呉服店の姿に近づける予定だったが、内観は資料が少なく難航している。』そうです。
新聞報道でこのレストハウスの歴史が簡略によくわかりましたので引用しました。
2018年2月26日平和記念公園に立ち寄った時に改修工事用の足場が組み立てられていましたので、撮影ました。
   20.10.10.更新   14.07.25再編集   01.11.25裕・編集

01.11.21.撮影
広島市中区中島町1  レストハウス

02.03.30撮影
平和の池側(西南側)からみました

03.01.06撮影
雪が積もった元安橋(東側)からレストハウスをみました

04.05.12.撮影
東面側に燃料会館・原爆被災説明板が設置されています

04.06.06.撮影
西面(爆心地の反対側)

04.06.06.撮影

14.07.17.撮影
原爆炸裂が≒170mと至近距離だった爆心地側(元安川越に)東面をみました

18.02.26.撮影
耐震改修工事は別頁で編集しましたからそちらを見てやってください

20.06.22.撮影
外観を建設当初の「大正屋呉服店」に近づけた改修が行われました

20.06.22.撮影
(別棟はやっぱり邪魔)   緑色の三角屋根が撤去され印象が変わったレストハウス
設計者:増田清 工事竣功報告書

20.08.22平和記念資料館展示パネル.撮影

20.08.22平和記念資料館展示パネル.撮影



平和記念公園」編


被爆した建物・構築物」編



広島ぶらり散歩へ
広島市平和記念公園レストハウス
   (2階展示)明子さんの被爆ピアノ
 旧燃料会館地下室
   レストハウス改修その工事他
    (改修工事中)仮設レストハウス
(再現)原爆一号・吉川記念品店
燃料会館・原爆被災説明板
野村英三さん「爆心に生き残る」の原稿


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