ひろしまけん さんぎょう しょうれいかん
廣島縣産業奬勵館
  中区大手町の平和記念公園に残る原爆ドーム、この頁では、竣工時・廣島縣物産陳列館が被爆時・廣島縣産業奬勵館になっていった歴史を取り上げました。
1945(昭和20)年8月6日米軍投下の原子爆弾により無残な姿になり今日まで残され(爆心地から≒160m)、原爆ドームと呼ばれている建物は、チェコの建築家ヤン・レツル(1880-1925)の設計監督により、1915(大正4)年4月(当時の)猿楽町に完工した広島県物産陳列館でした。
緑色の屋根(竣功時は銅板でしたので赤銅色の輝きでしたが、年とともに銅錆で緑色になっていきました)。特徴あるドームをもち広島市民に親しまれていたそうです。
原爆により、中央のドーム部分を中心とした外壁を残し、建物の本体部分はほぼ全壊しました。
残った建物は、人類史上初めて使用された核兵器による負の遺産で、人類の平和を願うシンボルとしての価値が評価され、1996(平成8)年世界遺産に登録されました。
(広島県産業奨励館)改称の歴史
廣島縣物産陳列館 1915(大正4)年4月5日 広島県物産品の販売促進を図る拠点として竣工、8月5日開館。
4月5日から5月14日まで「広島県物産共進会」開催。
廣島縣商品陳列所 1921(大正10)年1月〜 *廣島縣立商品陳列所といっている資料もあります
廣島縣産業奬勵館 1933(昭和8)年11月〜 広島県の産業奨励にとどまらず、亜細亜に対する経済進出拠点にもされ1934年4月(中国)大連・新京・ハルピンに出張所が設置され、1938(昭和13)年4月には奉天・天津・上海そして神戸にも事務所を設置しました。
(統制会社の事務所) 1944(昭和19)年3月〜 内務省中国四国土木出張所(1階の一部と3階を使用)、廣島縣地方木材(株)、日本木材(株)廣島支社、廣島船舶木材(株)等に使用されました。
広島ぶらり散歩「平和記念公園」編の中の一頁として2000年に原爆ドームを取り上げました。
平和記念公園に遺されていますが、その歴史などを少しづつ知って来ましたので、広島ぶらり散歩「原爆ドーム」編として独立した項目にし、その中の一頁としました。
頁を更新して10年ほど経ちましたので、頁を見直し再編集しました。
 15.07.30.更新   14.07.28再編集   00.01.15裕・編集
↓ 原爆被災説明板を撮影したものです
原爆ドーム所在地:広島市中区大手町1-11、 原爆被災説明板設置場所:広島市中区中島町1

15.07.29.平和記念資料館東館地下1階廊下展示パネル撮影
(広島平和記念資料館東館地下1階廊下の被爆前のパネル写真の産業奨励館を中心に撮影しました)
                -廣島縣産業奬勵館の概要-
構造など 鉄骨入りレンガ・石造り、3階建(一部5階)地下1階。高さ82尺(≒25m).。セセッション様式
敷地面積≒3,200u。建築面積1,023u。 
 地階:厨房室
 1階:事務室、所長室、配膳室。会議室、図書閲覧室。予備室。中庭、(南側)鉄骨階段、(北側)EV。
など
 2階:陳列室。貴賓室。
 3階:陳列室。参観者休憩室。
工費12万円(を要したとの当時の新聞報道がありました)
設計 ヤン・レツル
施工 椋田組
                -ヤン・レツル: Jan Letzel (1880-1925)-
1907 (明治40)年 横浜のデ・ラランデ事務所で働くため来日。
現在のチェコ出身のセセッション(分離)派の建築家。
1909 (明治42)年 同じチェコ人の仲間と共同で設計事務所設立し独立。
日本での本格的な建築活動、デザインを担当したそうです。
宮城県の県営松島パークホテル(1913年竣工・1969年焼失)を当時の寺田祐介宮城縣知事が気にいり、その後廣島縣知事になったことから廣島縣物産陳列館(1915年竣工・1945年被爆)の設計者として指名したそうです。広島県には他に宮島ホテル(1917年竣工・1952年焼失)があったそうです。
分離派 (独語)Sezession:ゼツェシオン{=ゼツェッション=セセッション(=分離派)}
19世紀末、ドイツとオーストリア各地におこった芸術革新運動。この名称には、過去の歴史様式から「分離」して新しい創造に向かおうとする意味が込められています。
絵画の刷新という面では、フリッツ・フォン・ウーデ(1848-1911)が中心となったミュンヘン分離派(1892)、マックス・リーベルマン(1847-1935)らのベルリン分離派(1899)がありますが、これらはフランス印象派の影響を抜けきることができず、歴史的な意味からは、建築・工芸の領域にわたったウィーン分離派の仕事が特筆されます。
☆ゼツェシオンの影響を受けたといわれる建物「旧大阪商船三井船舶株式会社門司支店」もあります。
1階平面図          (広島市の資料より)*左→右書きの室名は(わたし)裕が加筆しました
広島市・広島教育委員会:企画製作ペーパー建築模型(を撮影しました)
大正3(1914)年12月ごろの建設中の写真だそうです。
(上記写真はペーパー建築模型の中の資料を使用しました)

03.02.23撮影
広島県産業奨励館・原爆被災説明板
爆心地から約160m
  この建物は、チェコの建築家ヤン・レツルの設計監督により1915(大正4)年4月に完工し、特徴ある緑色のドームによって市民に親しまれていました。
原爆は、この建物の南東約160m地点の上空約580mでさく裂したため、建物は大破・全焼して館内にいた全員が即死しました。その後、原爆の惨禍を全世界に伝えるとともに、世界平和へのシンボルとして1996(平成8)年12月、ユネスコの世界遺産一覧表に登録されました。
世界遺産一覧表に記載された英語の表現「HIROSHIMA PEACE MEMORIAL(GENBAKU DOME)」を日本語に訳すと「広島平和記念碑」になるのでしょうね。
文献によってはわざわざ単独でそう書いているものもありますが、あくまで英語訳からきたものとの考えで、日本語では原爆ドームでいいと(わたしは)思うのです、
04.04.03裕・追記

1945.11米軍撮影   写真:広島平和記念資料館提供
※広島平和記念資料館が収蔵保存している資料「平和データーベース」から許可申請を提出し、許可をいただき掲載しました。



「原爆ドーム」編


平和記念公園」編



広島ぶらり散歩へ
原爆ドーム(概説)
 被爆後1945年11月(米軍撮影画像)
(広島市設置)原爆ドーム説明板
旧・廣島縣産業奬勵館について
広島県産業奨励館・原爆被災説明板
(広島県産業奨励館は)湾曲した建物
原爆ドーム鉄骨部分(楕円形について)
設計者:ヤン・レツルの略歴
旧広島県産業奨励館・中央木造螺旋状階段
旧広島県産業奨励館・鉄骨螺旋階段
旧広島県産業奨励館・地下室への階段
広島県産業奨励館・噴水跡
  広島県産業奨励館噴水の吐水口


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