広島ゆかりの人たち -歴代広島城主-

毛利輝元が1591(天正19)年1月に吉田から広島に入城して以来、1869年7月25日(明治2年旧暦6月17日)、全国274藩主に藩籍奉還が行われ、最後の広島藩藩主だった浅野長勲まで14代にわたり続いたのです。
その歴代広島藩主をまとめてみたのがこの頁でした。
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歴代広島城主 歴代広島県知事 歴代広島市長  外国人編
※辞書を引いても資料を調べても、分からない処もあり、間違って編集した処もあるでしょうから、誤記・誤字はご容赦願っておきます。
06.05.22更新  06.02.10裕・再編集
































1553-1625
1591-1600













1561-1624
1600-1619














1586-1632
1619-1632














1617-1693
1632-1672













1637-1673
1672-1673













1659-1708
1673-1708













1681-1752
1708-1752













1717-1787
1752-1763













1743-1813
1763-1799













1773-1830
1799-1830













1817-1868
1831-1858













1836-1858
1858













1812-1872
1858-1869













1842-1937
1869
もうりてるもと
毛利輝元
1553-1625

(天文22-寛永2)
安土桃山・江戸初期の武将。幼名、幸鶴丸。元就の孫(毛利隆元の長男)。剃髪後は宗瑞(また幻菴)と号す。13代足利義輝の名の一字を与えられ輝元と名乗る。
1563(永禄6)年父の死によって11歳で家督を継いだが、祖父・元就が実権者であった。出雲の尼子氏とたびたび戦い山陰・山陽10か国を領有。1571(元亀2)年元就は没したが叔父の吉川元春、小早川隆景らがよく補佐して広大な版図を維持した。1572(元亀3)年右衛門督。1573(天正元)年京都を追われた15代将軍足利義昭を迎えて織田信長と対立した。天正2年右馬頭。1582(天正10)年6月21日本能寺の変の後に豊臣秀吉と和睦。1587(天正15)年九州遠征に従軍。1588(天正16)年従四位下侍従、参議。1590(天正18)年小田原攻略に際しては京都を守る。1591(天正19)年安芸国(安藝國)佐東郡広島(廣島)に城を築き同国吉田郡山城から移り住む、中国9か国120万石の朱印状を受ける。1595(文禄4)年従三位に叙し権中納言に任せられる。1598(慶長3)年五大老の一人に列せられる。1600(慶長5)年10月21日関ヶ原の戦いでは豊臣方(西軍)の総大将格、関ヶ原の戦いには参戦しなかったが戦後防長両国(長門・周防2か国)に減封される。剃髪して子の秀就に家督を譲りこれを後見した。1625(寛永2)年4月27日萩において卒。天樹院殿雲宗瑞大居士。
関連頁 広島城
ふくしままさのり
福島正則
1561-1624
(永禄4-寛永元)
安土桃山・江戸初期の武将。尾張の人。幼名、市松。通称は左衛門大夫。号は高斎。
幼少(1578年=天正6年)から豊臣秀吉に仕える。1583(天正11)年賤ヶ岳の戦での勇戦が知られ、俗に賤ヶ岳の七本槍の筆頭、小牧・長久手の戦い、朝鮮出兵(1592年)などで活躍。1585(天正13)年4月伊予国今治10万石の城主、7月従五位下左衛門大夫。1595(文禄4)尾張国清洲24万石城主。1597(慶長2)年侍従。1600(慶長5)年9月15日関ヶ原の戦いでは徳川方先鋒。1600(慶長5)年11月安芸備後両国広島49万8820石の城主。1602(慶長7)年少将。城主になってから城下町の整備も積極的に行い、西国街道を城下の中心に引入れ、それと分岐する形で雲石街道の起点をもうけ街道筋に町人町を配置、商人を集住させた。1617(元和3)年参議従四位下(一説には従三位)。1619(元和5)年6月城無断修築をとがめられ所領没収となり、陸奥国津軽に移るを命ぜられるが、信濃国河中島(川中島)4万5千石に移され、高井野に蟄居した。1624(寛永元)年7月3日高井野邑にて卒(病死)。

関連頁 広島城   八剣神社    邇保姫神社   蓮華寺
あさのながあきら
浅野長晟
1586-1632
(天正14-寛永9)
浅野初代。浅野長政の次男。幼名、岩松。妻は徳川家康の娘・振姫(フリヒメ)。
豊臣秀吉のち徳川家康に従い、関が原の戦い、大坂の陣に出陣。
1597(慶長2)年従五位下右兵衛佐。1607(慶長12)年但馬守。1613(慶長18)年10月兄幸長(ヨシナガ)の跡を継ぎ37万余石紀伊和歌山藩主第二代となる。1615(元和元)年従四位下。1619(元和5)年7月福島正則の改易により安芸国および備後国八郡42万6500石に移封、8月8日広島に入城。1626(寛永3)年侍従。1632(寛永9)年9月3日広島において卒。自得院殿洞雲宗仙大居士。
関連頁 縮景園   琴比良稲荷
あさのみつあきら
浅野光晟
1617-1693
(元和3-元禄6)
浅野二代。浅野長晟の子(二男)。幼名、岩松。母は徳川家康の娘・振姫。
1627(寛永4)年元服に際し松平姓を(将軍徳川秀忠より)ゆるされ、従五位下安芸守となる。1632(寛永9)年父の跡を継ぎ安芸広島藩主浅野家二代となる、遺領のうち五万石を庶子の兄・浅野長治にわけ、支藩備後三次藩とした。1634(寛永11)年従四位下侍従。1665(寛文5)年左少将。1673(延宝元)年紀伊守。1693(元禄6)年4月23日広島において卒。玄徳院殿仁嶽良寛大居士。

関連頁 広島東照宮
あさのつなあきら
浅野綱晟
1637-1673
(寛永14-延宝元
浅野三代。浅野光晟の子(長男)。幼名、岩松。
1653(承応2)年従四位下弾正少弼。1668(寛文8)年侍従弾正大弼。1672(寛文12)年4月父の跡を継ぎ安芸広島藩主浅野家三代となるが翌1673(延宝元)年1月2日江戸において卒。天心院殿徹性日通大居士。
あさのつななが
浅野綱長
1659-1708
(万治2-宝永5)
浅野四代。浅野綱晟の子(長男)。幼名、岩松。
1673(延宝元)年2月父の跡を継ぎ安芸広島藩主浅野家四代となる、9月無位安芸守。1674(延宝)年従四位下侍従。1677(宝永5)年2月11日広島において卒。顯妙院殿玄奥日統大居士。
堀南湖(1684-1753)ら朱子学者を
侍講とし、文治政策をおこなう。
関連頁 饒津神社  十軒屋稲生神社
あさのよしなが
浅野吉長
1681-1752
(天和元-宝暦2)
浅野五代。浅野綱長の長男。幼名、仙次郎、岩松。
1695(元禄8)年従四位下備後守。1708(宝永5)年3月父の跡を継ぎ安芸広島藩主浅野家五代となる、11月安芸守、11月侍従。家老を執政からはずし、自ら藩政改革を主導。講学館を設置して文武を奨励し、広島藩中興の祖といわれる。代官制を廃止して郡役所をもうけるなど農村支配の強化をはかるが、1718(享保3)年大一揆がおこり失敗した。1730(享保15)年弟の長賢に広島新田藩3万石を分ち内證分家とする。1732(享保)17年左近衛権少将。 1752(宝暦2)年1月13日広島において卒。體國院殿恒巖宗隆大
居士。
関連頁 1739(元文4)年宮島の大鳥居を再建(現在の大鳥居)。
あさのむねつね
浅野宗恒
1717-1787
(享保2-天明7)
浅野六代。浅野吉長の長男。幼名、仙次郎、岩松。
1731(享保16)年従四位下刑部大輔。1735(享保20)年伊勢守。1749(寛延2)年侍従。1752(宝暦2)年3月父の跡を継ぎ安芸広島藩主浅野家六代となる、8月安芸守。1763(宝暦13)年但馬守。1787(天明7)年11月24日広島において卒。鶴皐院殿天随道仙大居士。
比叡山の堂塔修復の公役や大火、凶作のため藩の財政は困窮。家禄制度をあらため節倹策による立て直しをはかった。
あさのしげあきら
浅野重晟
1743-
(1814)
(寛保3-文化10)
浅野七代。浅野宗恒の長男。幼名、善次郎。
1758(宝暦8)年従四位下上総介。1763(宝暦13)年2月父の跡を継ぎ安芸広島藩主浅野家七代となる、3月安芸守。1764(明和元)年侍従。1790(寛政2)年左近衛権少将。1799寛政11年備後守。1813(文化10)年11月13日広島において卒。恭昭院殿鸞臺種徳大居士。
藩財政の立て直しのため、自ら倹約につとめる。社倉法による救荒策、絹・油などの国産振興策をすすめた。また頼春水(1746-1816、儒学者)らをもちいて学問所をひらいた。

関連頁 縮景園   饒津神社
あさのなりかた
浅野斉賢
1773-1830
(
安永2-文政13)
浅野八代。浅野重晟の次男。幼名、時之丞、善次郎。
1775(安永4)年兄の草世で嫡子となる。1789(寛政元)年従四位下右京大夫。1794(寛政6)年侍従。1799(寛政11)年8月父の跡を継ぎ安芸広島藩主浅野家八代となる、9月安芸守。1816(文化13)年左少将。1830(文政13)年11月21日広島において卒。天祐院殿徳順履信大居士。
藩財政の立て直しと殖産をすすめ、藩政の安定期をむかえる。藩の地誌「藝藩通志」を頼杏坪(1756-1834、儒学者)らに編纂させた。

関連頁 饒津神社
あさのなりたか
浅野斉粛
1817-1868
(文化14-慶応4)
浅野九代。浅野斉賢の子(長男)。幼名、勝吉。前名は長粛。
1821(文政4)年嗣子となる。1831(天保2)年1月父の跡を継ぎ安芸広島藩主浅野家九代となる。1832(天保3)年従四位下侍従安芸守。1836(天保7)年左少将。1840(天保11)年従四位上。1858(安政5)年備後守。1868(慶応4)年1月12日広島において卒。温徳院殿寛洪日順大居士。
天保の大飢饉と河川普請の公役などによる出費増のため、藩財政は極度に困窮した。

関連頁 饒津神社
あさのよしてる
浅野慶熾
1836-1858
(天保7-安政5)
浅野十代。浅野斉粛の子(長男)。幼名、定吉、定之丞、善次郎。前名は長裕。
1850(嘉永3)年11月嗣子となる。1851(嘉永4)年従四位上侍従上總介。1858(安政5)年4月12日父の跡を継ぎ安芸広島藩主浅野家十代となる、4月18日安芸守。在任5ヶ月の同1858(安政5)年9月10日江戸において卒。大光院殿哲文懿徳大居士。
あさのながみち
浅野長訓
1812-1872
(文化9-明治5)
浅野十一代。七代浅野重晟の孫。幼名、千之助、爲五郎 。名は‘ながくに’ともよむ。前名は茂長。通称、節山公。
安芸広島藩支藩の新田藩主浅野五代を継ぐ、近江守と称す。1858(安政5)年11月本藩を相続、安芸広島藩主浅野家十一代となる、12月安芸守。安政6年茂長従四位下侍従。万延元年左近衛権少将。明治5年7月26日東京において卒。
辻維岳イガク(1823-1894)らを登用して藩政改革を推進。両度の幕長戦争で和議調停につとめ、大政奉還にも尽力した。
あさのながこと
浅野長勲
1842-1937
(天保13-昭和12)
浅野十二代。初名は長興、茂勲。
伯父の浅野長訓の養子となり、安政5年安芸広島藩支藩の新田藩主浅野六代を継ぐ、近江守を称す。
1862(文久2)年宗家の嗣子となり紀伊守。1863(文久3)年茂勲と改名。元治元年左近衛権少将。1867(慶応3)年議定職。1868(慶応4)年会計事務総督、長勲と改名。1869(明治2)年1月本藩を継ぎ、安芸広島藩主浅野家十二代となる、2月参与、安芸守、3月参与を免じ議定、5月議定を免じ麝香間祗候、6月広島藩知事。1871(明治4)年7月広島藩知事を免じられる。1889(明治22)年勲一等。1896(明治29)年従一位。1937(昭和12)年2月1日広島において卒。
この間将軍徳川慶喜に大政奉還をすすめるなど、国事に奔走。維新後はイタリア公使、貴族院議員などをつとめた。侯爵
関連頁 饒津神社浅野長勲頌徳碑   三篠小学校浅野侯爵立寄碑  三篠三丁目集会所横の記念碑
※参考にした資料は、主に新修廣島市史、講談社版・日本人名大辞典です。



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