広島赤十字病院・原爆被災説明板

  中区千田町の広島赤十字原爆病に建立されている「広島赤十字病院・原爆被災説明板」です。
※病院の増築工事で一時撤去されましたが、増築工事終了と共に再設置されています(別頁編集)。
2013年11月頃から新棟増築工事がはじまり、ここで取り上げた「広島赤十字病院・原爆被災説明板」は現在仮撤去されており新棟が竣工するという2015年8月頃までは見ることが出来ないとわたしは思っていますが。
2015年11月4日定期検診で行った広島赤十字病院新館が開館していました。外に出てみると、新しく門柱の間に設置されていましたので、以前のようにみることができます。(別頁で編集しました)
広島赤十字病院・原爆被災説明板       爆心地から約1.5km
  鉄筋コンクリート3階建のこの病院は 原子爆弾の強烈な爆風により外郭だけを残して破壊されました。
当時この病院の一部は 広島陸軍病院分院としても使用されていました。
地下室に置かれていたレントゲンフィルムがすべて感光したことにより、この爆弾が原子爆弾であることが立証されました。被爆後 生き残った医師・看護婦は、救護を求めて集まってきた被災者に残されたわずかな医療資材を用いて治療を続けました。
写真説明:外郭だけを残す赤十字病院 1945(昭和20)年9月川本俊雄氏撮影
日本赤十字社広島支部病院として昭和14(1939)年2月鉄筋コンクリート3階建、地下1階として竣工し、昭和20(1945)年8月6日原爆により窓ガラスは吹き飛び窓枠はねじ曲がり内部も大破し、隔離病棟・看護婦生徒宿舎などの木造建築物は全半焼したあと周辺からの類焼で全焼したが、本館・1号館・2号館は懸命な防火活動で類焼を食い止めたそうです。
収容中の患者250名中5名と病院関係者69名が犠牲になったそうで、被爆直後から多くの被爆者が救護を求め集まり、救護活動22日間に延べ31,000人以上(陸軍病院でもあったこの病院には他病院以上の医薬品が備蓄されていたがたちまち使い果たした)に上ったそうです。
1939(昭和14)年5月    日本赤十字広島県支部病院として開院(病床数237床)
1939(昭和14)年8月    陸軍指定病院となり「広島陸軍病院赤十字病院」と改称
1943(昭和18)年1月    広島赤十字病院に改称
1945(昭和20)年8月6日  原子爆弾により甚大な被害を受けました
1993年からここ広島赤十字病院眼科のお世話になっているというのに、ここで取り上げた原爆被災説明板のことなど知らなかったわたしです。2002年撮影しこの頁を編集しました。
2005年に原爆被災説明板の周りの状況ががわかるようにと撮影しました。
2006年(通称)原爆資料館に展示「の(原爆で)感光したレントゲンフィルム」を撮影しましたので、別頁で編集しました。
2014年6月12日定期検診で訪ねた時に、工事のガードマンに原爆被災説明板は何処か仮に移され仮設置ているのかと尋ねたのです。メモリアルパークの方に移していると云われたので、(わたしは)メモリアルパークをみて無い事確認していると話すと、古手のガードマンの方が、撤去して現在別場所で保管しているということを話してくれました。そこで、増築工事竣工後に元に戻される予定だろうと(わたしは)思いました。
  15.12.30.追記   14.06.02再編集   02.11.10裕・編集

05.10.10.撮影
広島市中区千田町1-9-6  広島赤十字原爆病院

05.10.10.撮影
残された「被爆した窓枠」その前に「硝子が刺さった壁」、「原爆被災説明板」、「モニュメント」の裏側・屋根がみえます

02.10.31.撮影
1945(昭和20)年9月川本俊雄氏撮影の原爆被災説明板の写真を使用しています。

02.10.31.撮影

02.10.31.撮影
(仮撤去されていると思う状況)

14.06.12.撮影
原爆被災説明板が設置されていた処は、増築工事の出入口になっています



原爆被災説明板一覧」編


「建物など」編



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(移設前)広島赤十字病院原爆殉職職員慰霊碑
広島赤十字病院原爆被災説明板
(移築復旧)広島赤十字病院原爆被災説明板
  (展示)感光したレントゲンフィルム
(移設前)被爆した建物一部保存
皇紀2600年記念碑
(枯死した)被爆にわうるし、十字架
(移設前)原爆の絵を街角に返す会の碑
(移設前)マルセル・ジュノー博士記念碑(壁付け)
圓鍔勝三作:調べ
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広島赤十字・原爆病院メモリアルパーク


広島赤十字原爆病院(概説)


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