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中区上幟町に作庭されている「縮景園」についてこの頁で取り上げています。
※造営当時は“泉水屋敷”と呼ばれ、明治から戦中までは“泉邸(せんてい)”と呼ばれていました。 |
縮景園は、広島藩主として浅野長晟(1586-1632)が入国した翌年・1620(元和6)年から、別邸(泉水屋敷)の庭として築成がはじめられました。築庭にあたったのは茶人でもあった家老の上田宗箇(1563-1650)です、当初は小規模でありましが歴代藩主により整備されていきました。
縮景園の名称は、幾多の勝景を聚め縮めて表現した事によるといわれているそうですが、中国坑州の西湖を模し、山川の景、京洛の態、深山の致※を庭の中に縮景したとも伝えられています。
宝暦8(1758)年、廣島の町の大火が縮景園にも及びました。
1783-1788(天明3-天明8)年七代・浅野重晟(1743-1814)は京都の庭師・清水七郎右衛門を招いて大改修を行いました。庭園の造りは回遊式で北の二葉山、西の己斐山を借景として取り入れ、奥行きのある空間が構成されました。
明治以降も浅野家の別邸として利用されていましたが、
1913(大正2)年10月園内に観古館が設けられ観覧が許されるようになりました。
1940(昭和15)年浅野家から広島県に寄付され、同(1940)年7月12日国の名勝に指定され、泉邸(せんてい)と呼ばれ親しまれてきたそうです。 |
1945(昭和20)年8月6日(月)8時15分米軍投下の原子爆弾によって壊滅状態になってしまいました。
避難先に指定されていた縮景園には被爆直後から数多くの被災者が避難してきました。午後2時頃(自然発火で)木々が燃えはじめ竜巻が起こり、歩ける人たちは京橋川の河原などへと逃れて行きましたが多くの被爆者が息絶え園内にも多数の死者を埋葬したそうです。 |
爆心地から≒1220m〜1460m (被爆当時町名:上流川町) |
1951(昭和26)年4月応急的修復をほどこし再び開園され、
1962(昭和37)年ころから広島県教育委員会は整備を進め清風館(昭和39年)、明月亭(昭和49年)などを復元してきたそうです。 |
☆面積:50,995.66u(以前のパンフレットでは37,332u)資料は縮景園パンフレット日本語版他より |
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2000年頃からデジカメで撮影していましたので、ここ縮景園も少しづつ撮影していこうと思っている処なのです。 |
植物にも疎いわたしですが、四季折々の縮景園を撮影出来ればと思いながら頁を編集しています。。 |
21.07.27.更新 00.11.20裕・記編集 |
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01.11.24撮影 |
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03.01.30撮影 |
02.03.30撮影 |
01.11.24撮影 |
01.11.24撮影 |
03.01.30撮影 |
(たくえいち)
濯纓池 |
(ここうきょう)
跨虹橋 |
(せいふうかん)
清風館 |
(ゆうゆうてい)
悠々亭 |
(せきしょうあん)
夕照庵 |
08.03.04再編集 |
08.03.04再編集 |
08.03.06再編集 |
08.03.06再編集 |
03.02.01編集 |
01.11.24撮影 |
01.11.24撮影 |
03.01.30 撮影 |
02.03.30撮影 |
02.03.30撮影 |
(縮景園)説明板 |
原爆被災説明板 |
原爆慰霊碑 |
桜の標本木(2020年まで)
桜の標本木(2021年から) |
(園内)注意板 |
08.04.22更新 |
21.07.27.更新 |
15.06.02.再編集 |
21.02.22.編集 |
02.04.03編集 |
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03.01.30撮影 |
濯纓池、跨虹橋、清風館 |
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名 称 |
(広島県)縮景園 |
住 所 |
〒730‐0014 広島市中区上幟町2‐11 |
開園時間 |
4月1日〜9月30日 |
9:00−18:00 |
10月1日〜3月31日 |
9:00−17:00 |
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休 園 日 |
12月29日〜31日 |
入 園 料 |
大人 |
260円 |
高校・大学生 |
150円 |
小学・中学生 |
100円 |
65歳以上: |
無料 |
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'21.07.01.現在 |
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みどころ |
園内みどころ一覧・画像 |
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梅 |
1月中旬−2月下旬 |
桜 |
3月下旬−4月上旬 |
牡丹 |
4月下旬−5月上旬 |
菖蒲 |
5月下旬−6月下旬 |
紅葉 |
11月中旬−11月下旬 |
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道 案 内 |
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交通
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徒歩: |
JR広島駅≒900m 約15〜20分 |
電車:
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広電;八丁堀で乗換・縮景園前下車 約25分
運賃;@190円/大人(乗換えても)市内均一
(現金使用者は乗換時に運転手・車掌に申告してください) |
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21.04.09現在 |
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