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中区中島町の平和記念公園・原爆の子の像北側に設置されている「中島勧商場跡説明碑」です。 |
中島勧商場跡 |
このあたりは、元安川、本川の水運に恵まれ、広島城下の商業の中心地でした。
明治15(1882)年には各種商品を取扱う集団的な小売店舗商業として中島集散(集産)場が開設。明治25(1892)年には中島勧商場と改称されました。附近には映画館(活動写真)、撞球店、射的場などの遊技場が軒をつらね、昭和初期まで市内第一の歓楽地として繁栄をつづけました。 |
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他に横町の広島商工倶楽部、堀川町の広島中央勧商場、堺町勧商場、胡子勧商場、横町勧商場などが明治末期までに次々に開設したそうです。 |
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大正元(1912)年 |
市内電車が運転しはじめると、紙屋町、八丁堀、広島駅前、宇品海岸通が新しい盛り場として賑わい出しました。 |
大正10(1921)年 |
堀川町の勧商場跡地に最新の盛り場“新天地”が誕生。 |
昭和2(1927)年 |
新天地につながる薬研掘から流川筋にかけ東新天地が誕生。 |
昭和4(1929)年 |
百貨店“福屋”の出現につながっていくのです。 |
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明治・大正時代、多くの商店が一つの建物の中で種々の商品を陳列・販売した所。デパートの隆盛とともに衰退。博品館。 |
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2002年に「中島地区・原爆被災説明板」を撮影して頁を編集しました。
2004年になってその中島地区原爆被災説明板の近くに建立されている旧型の「中島勧商場跡説明碑」は、ここ中島地区の昔の事がわかる碑ということで、その「中島地区・原爆被災説明板」の頁に加えて追記しました。 |
しかし、この碑は原爆被災説明板ではないので、2014年になりましたが、この碑の周りの状況がわかるように撮影し、「中島勧商場跡説明碑」として独立したこの頁を再編集しました。 |
14.06.01.再編集 (04.03.01.裕・記編集) |