ばくしんち 
爆心地
(島病院) 爆心地・原爆被災説明板
  (広島の)爆心地には原爆被災説明板しかありません。
原爆被災説明板の英訳には「Hypocenter」と記されていますが、一般的には「Ground Zero」といわれています。
     爆心
東経:132度27分27秒
北緯:34度23分29秒
高度:約600m
※爆心位置は、広島平和記念資料館の資料を参考にしました。
      島病院(現在:島外科)
当時: 廣島市細工町(さいくまち)29−2 島病院
現在: 広島市中区大手町(おおてまち)1‐5‐24 島外科
※爆心地は、戦前と現在では(町名変更があり)表記が違います。
  (当時の)島病院の状況
被爆当時の島病院は、1933(昭和8)年8月に竣工し、レンガ造2階建、玄関庇を円柱が支えるように配置され両サイドの壁には円窓がある建物でした。
1945(昭和20)年8月6日被爆当日、島薫院長(1897-1977)は出張診療で(世羅郡甲山町へ看護婦1人を連れ)不在でした。建物は原爆の破壊力にひとたまりもなく、約75人☆1の患者、看護婦などの病院関係者は建物とともに全滅しました。島院長は、警察からの「広島が空襲で壊滅したので救援にかけつけてくれ」との連絡で、救急資材をもてるだけ持って広島へと帰り、焼け残った横川の広島市信用組合の2階に寝泊りし袋町国民学校で被災者の治療に当ったそうです。病院は被爆後3年を経た1948(昭和23)年木造モルタル2階建てでの再建だったそうです。
☆1 島薫院長の遺稿集(1983年編纂)では「80人ばかりの人が亡くなった」とあります。
「病室はほとんど満員で50人は入れました。それに、食事の支度をする患者さんの家族が付き添っていました。看護婦はいずれも住み込み。10人はいたと記憶しています。」
病院は6人部屋から個室までの15室を備え、困窮患者をみる木造の施療7室もありました。
敷地面積は約1,320uでした。
「玄関の門柱そばに、黒焦げの遺体が一つだけあり、金歯から婦長の宮本さんと分りました。ほかの人は皆下敷きになっていたと思います。」
現在の(広島の)爆心地には、この爆心地・原爆被災説明板以外何もありません、そのことが反って寂しさを呼ぶように(わたしは)思います。生活に追われ通り過ぎていく日々が平和の中にあるからなにも感じなかったのかもしれません。
2002(平成14)年9月11日広島の放射線影響研究所で開催された「日米合同線量研究者会議」で爆心地が、今いわれている位置から16.2m西であったというニュースがありました。 
爆心地とは、爆心(原子爆弾の空中炸裂点)の直下の地点としてわたしのHPでは表記しています。
2012年2月平和記念資料館東館に立寄った時、2011年度第2回企画展(2012年2月3日〜7月9日)「広島、1945-写真が伝える原爆被害-」が催されていました。告知の看板に(被爆後の)島病院に島薫院長が関係者の消息を求め病院跡に伝言板を立てた写真(林重男撮影)が使用されていましたので、この頁で取り上げました。
14.07.30.追記  02.09.12再編集  01.09.01裕・記編集
    参考頁:(長崎)原爆落下中心地碑

01.09.01.撮影

01.09.01.撮影
広島市中区大手町1‐5‐24 島外科第3駐車場

03.09.24.撮影

03.09.24.撮影
≒南西よりみる ≒北西からみる
原爆被災説明板

01.09.01.撮影
爆心地・原爆被災説明板
テニアン島から飛来した米軍機B-29「エノラ・ゲイ号」によって人類史上最初に使用された原子爆弾は、この上空約580mで炸裂しました。
爆心直下となったこの一帯は約3000℃〜4000℃の熱線と爆風や放射能を受けほとんどの人々が瞬時にその生命を奪われました。時に1945(昭和20)年8月6日(月)8時15分のことでした。
(現地点から見た北方の惨状 1945年11月 米軍撮影)
写真右奥の鳥居は廣島護國神社のもので、現在は場所を移されていますが健在です。

12.02.09.撮影

12.02.09.撮影
平和記念資料館2011年度第2回企画展
広島、1945-写真が伝える原爆被害-
島薫院長は関係者の消息を求め病院跡に伝言板を立てました
1945(昭和20)年10月撮影者:林重男

テニアン島
Tinian

 太平洋西部、ミクロネシアのマリアナ諸島のなかで2番目に大きな島。
北マリアナ連邦(1978年発足)に所属。幅4
.8Kmの水道を隔てて北にサイパンSaipan島がある。南北16km、東西8km、面積101Kuの火山島だが、最高峰はラッソLasso山の173mにすぎない。人口899(1980)。
1521 (西洋史的には)マゼラン世界周航途次に発見、スペイン領となりました。
1889 ドイツに売却されました。
1919 大正8年 日本の委任統治領となりました。
1944 昭和19年 7月7日、日本軍玉砕陥落、7月23日米軍上陸占領。
1978 昭和58年 北マリアナ連邦(アメリカ合衆国の自治領)の中の1島

エノラ・ゲイ号※1

原爆投下後のエノラ・ゲイ※3
米国陸軍航空軍第509混成部隊第393爆撃戦隊所属のB-29機名
機体番号44-86292号


B29要目
翼全長 42m
高さ 8.4m
胴体長 30m
推進エンジン 2200馬力

 広島へ原爆を投下した、米陸軍航空隊の原爆搭載機B29の名称。
エノラ・ゲイ号は6日午前2時45分(日本時間同1時45分)、原子爆弾リトル・ボーイを搭載し、マリアナ諸島・テニアン島の滑走路から飛び立ちました。原爆投下時の科学観測と写真撮影を行う2機を従えていました。 
(テニアン島から広島まで≒2,740kmで、B29爆撃機で片道≒6時間30分かかったそうです。)
日本時間午前8時15分30秒、高度31600フィート(≒9480m)で原子爆弾を投下、43秒後に炸裂した
※2。その時の温度は瞬間的にセ氏数百万度、数十万気圧となり猛烈な熱線と放射線が四方へ放射されました。この原爆で建築物も人もほぼ瞬時に破壊され、殺されました。

※1 機長ポール・チベッツ陸軍大佐の母の名ENOLA GAYからつけられたそうです。
ポール・チベッツ(=ティベッツ:Paul Warfield Tibbets, Jr.:1915-2007)
米国軍人。イリノイ州出身。1928年陸軍士官学校入学、その後シンシナティ医科大学入学、同校1937年卒業。1944年12月(原爆投下実行部隊の)第509混成部隊部隊長。
2007(平成19)年11月1日ポール・チベッツが亡くなったと報道で知りました。
非戦闘員を多数含む命を奪った原爆投下を「原爆投下によって、多くの命を救った」という主張を死ぬまで取り下げることはありませんでした。
2009(平成21)年8月6日通称・平和記念式典で挨拶されたデスコト第63回国連総会議長は「ローマ・カトリック教会の神父として、故ポール・ティベッツ機長が我々の教会の信者であったという事実に対し、私は心の底から日本の兄弟・姉妹の許しを請いたいと思います。」と述べられました。
※2 パーソンズ大佐の航空日誌の数字を参考にしました。
日本側の資料では8時15分17秒、9600mとなっているものもあります。
※3 平和記念資料館東館B1「新着資料展(2014.6.15まで)」で展示があった「原爆投下後のエノラゲイ」展示写真を撮影しました。別頁で編集。
   関連頁:エノラ・ゲイ
2014年7月30日広島原爆 最後の搭乗員が死去したとラジオで聞きました。
『広島に原爆を投下した米軍B29爆撃機「エノラ・ゲイ」の12人の搭乗員中、唯一存命だった航法士:セオドア・バン・カーク(1921-2014)が7月28日米南部ジョージア州の高齢者施設で老衰のため死去した。93歳だった。ニューヨーク・タイムズなどが伝えた。』ということでした。
14.07.30追記   13.03.18.追記  07.12.01追記
エノラ・ゲイ機体復元 米スミソニアン航空宇宙博物館は2003(平成15)年8月18日エノラ・ゲイを完全復元し今(2003)年12月15日の一般公開(ワシントン郊外のダレス国際空港近くに新設された航空博物館の施設で)に先立ち報道関係者に公開したそうです。
報道によると被爆の実相などの資料の展示はしないそうです。

1995(平成7)年エンジンなどの機体の一部がワシントン市内のスミソニアン博物館で特別展示されましたが日米間で“原爆展示論”に発展し、当時の館長が辞任に追いこまれました。米退役軍人の抗議で歴史資料の展示が縮小された事がありました。
1945(昭和20)年7月25日 トルーマン米大統領(日本に対する)原子爆弾の投下命令を下しました。
広島型原子爆弾 ウラニウム(ウラン235)爆弾でした。(15キロトンと云われているようです)
TNT爆薬が爆発したときに発するエネルギーに相当する核出力を意味しています。 
15ktは、5.5 × 10
13ジュールだそうです
(jouleとは、仕事量・エネルギー・熱量の単位で、1ニュートンの力が物体を1m動かすときの仕事量。)
関連項目:長崎型原爆(原子爆弾)
05.10.28追記   04.07.28護国神社鳥居リンク追記   03.08.19裕・編集追記
敬称は略しました



平和記念公園・周辺」編



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「原爆被災説明板一覧」編


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