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中区千田町の広島赤十字・原爆病院メモリアルパークに、現在は移築建立されている「献身の人(天野美紀枝)を偲んで」碑です。 |
正面: |
献身の人 天野美紀枝さんを 偲んで |
裏面: |
昭和四十一年羽田沖 事故で亡くなった 天野美紀枝全日空スチュワーデス を偲んで
昭和四十一年五月三十日 広島原爆病院患者一同 岡崎嘉平太 記之 |
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※メモリアルパーク(memorial park)≒公園墓地。霊園。 |
天野美紀枝さん |
東京都出身。全日本空輸客室乗務員(スチュワーデス)。津田スクールオヴビジネス卒業。
1963(昭和38)年スチュワーデスとして全日本空輸入社。
広島赤十字原爆病院には、スチュワーデスとしてのボランティア活動の一環で、毎年すずらんの花を送り慰問に訪れておられた縁で、飛行機事故に際し、多くの入院患者の募金によってこの碑が建立されたとのことです。 |
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すずらんの贈呈は、1956(昭和31)年、当時日本赤十字社名誉副総裁だった高松宮親王(1905-1987)のご提案から始まり、今(2015)
年で60 回目。
全日本空輸(株)グループから全国47ヶ所の赤十字病院などに入院する患者さんの回復を願い「すずらん、スズランのしおり」を寄贈している。「しあわせ」「幸福の再来」などの花言葉を持つすずらんの押し花のしおりは、客室乗務員や地上スタッフの皆さんが勤務の合間に手作りしたものだそうです。 |
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2015年6月4日中國新聞に記事がありました。
『全日本空輸の客室乗務員で、広島市西区出身の森岡綾さん(25)ら同社の4人が6月3日、広島赤十字・原爆病院に入院の被爆者たちに会い、手渡したスズランの香りがするしおり300枚と、鉢植え3鉢。
同社は1956年から全国各地の病院に「幸せ」の花言葉を持つスズランを贈っている。ことしで60回目。・・・』 |
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全日空羽田沖墜落事故 |
1966(昭和41)年2月4日東京湾の羽田空港沖で起きた全日空のボーイング727-100型機の墜落事故。(乗客数126人・乗員
7人)合計133人全員が死亡し、単独機として当時世界最悪の事故でした。 |
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岡崎嘉平太 (おかざきかへいた:1897-1989) |
実業家。岡山県出身。東京帝国大学法学部を卒業。
日本銀行を経て、1939(昭和14)年上海の華興商業銀行に移り終戦まで中国に滞在。
戦後は池貝鉄工、丸善石油の再建にあたる。1952(昭和27)年日本ヘリコプター輸送(全日本空輸の前身)副社長就任、1961(昭和36)年全日空第2代社長就任、1966(昭和41)年2月4日全日空羽田沖墜落事故、同(昭和41)年11月13日全日空松山沖墜落事故と航空事故が相次ぎ、1967(昭和42)年社長を辞任。日中国交正常化に尽力。1978(昭和53)年勲一等瑞宝章受章。 |
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2014年「広島赤十字・原爆病院メモリアルパーク」とパーク内に建立の各碑を撮影しました。原爆関連の碑、構造物などを撮影していて、最後にこの三角形をした小さな石碑に目がいきました。いままで(わたしは)広島赤十字病院の敷地内をくまなく見ていたわけではありませんが、この石碑ははじめてみました。
患者一同とありましたので、広島赤十字病院に入院されていたことがあったのではと思いましたが天野さんについて詳しいことはわかりませんでしたが、日中国交正常化に尽力した人で、全日空の社長だった岡崎嘉平太の名前をみましたので、この頁を編集しました。
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2015年暮れ、神奈川県大和市のkさんより天野美紀枝さんに関しての情報をいただきました。
天野さんは中学の2年後輩だったということで、この頁が目に留まったことで、詳しいことがわからないというわたしにメールしていただいたのです。
そう教えていただければ、TVニュースや新聞報道で、スズランが広島赤十字原爆病院の入院患者に贈られているところを見聞きしていたなと思ったのです。
改めて、広島にも心をよせられていた若くして亡くなった天野さんのご冥福をお祈りし追記しました。 |
15.12.30.更新 14.06.18.裕・記編集 |