(広島赤十字・原爆病院メモリアルパーク)青少年赤十字再建25周年記念イトスギ

  中区千田町の広島赤十字・原爆病院メモリアルパークに、移植されている「(青少年赤十字再建25周年記念)イトスギ」です。
※2009(平成21)年5月植樹されたイトスギですので、2013(平成25)年整備されたここメモリアルパークへ移植されたようです。
説明文: 樹名:イトスギ(ホソイト・スギ)
    (英)Italian Cypress (漢)細糸杉
    ヒノキ科 〔イトスギ属〕
学名:Cupressus semprvirens L.
     地中海性気候植
    日本には明治の中期に渡来関東地方南部以西の暖地に適す。
昭和48(1973)年青少年赤十字再建25周年記念に、全国青少年赤十字指導者
の先生方は、赤十字の発祥の地、北イタリア・ソルフェリーノのイトスギの丘を訪ね
赤十字創立者アンリー・デュナンの偉業を偲びました。
その時の感激をイトスギの種子にたくして各都道府県の青少年赤十字に贈られました。
この木はその種子の成長した姿です。
平成21(2009)年5月
    東京都赤十字賛助奉仕団  日本赤十字社東京都支部 
『日本赤十字社のスローガンは、「人間を救うのは、人間だ」
人道を実現するための行動「救う」を力強く表し、具体的な行動につなげるメッセージをスローガンに込めました。』とあります。
※国際赤十字運動標語 「Our world. Your move.」
日本赤十字社の資料‘国際赤十字の成り立ち’によるともう少し詳しく説明しています。
スイスの実業家アンリー・デュナン(1828-1910:1901年第一回ノーベル平和賞受賞者2名のうちの一人)は1859年、イタリア統一戦争の激戦地ソルフェリーノで悲惨なありさまを目の当たりにしました。
デュナンは放置されていた負傷者の救護活動にあたりました。
「傷ついた兵士はもはや兵士ではない、人間である。人間同士としてその尊い生命は救われなければならない」
ジュネーブに戻ったデュナンは、この時の様子を「ソルフェリーノの思い出」という本を出版しました。この中で、以下の必要性を訴えました。
(1)戦場の負傷者と病人は敵味方の差別なく救護すること
(2)そのための救護団体を平時から各国に組織すること
(3)この目的のために国際的な条約を締結しておくこと
この訴えは、ヨーロッパ各国に大きな反響を呼び、1863年2月赤十字国際委員会の前身である5人委員会が発足、5人委員会の呼びかけに応じてヨーロッパ16カ国が参加して最初の国際会議が開かれ、赤十字規約ができました。
この規約により各国に戦時救護団体が組織され平時から相互に連絡を保つ基礎ができ、デュナンの提案の一つが実現しました。そして翌1864年には、ヨーロッパ16カ国(スイス、イギリス、フランス、イタリア、スペイン、オランダ、スウェーデン、ロシア、オーストリア、プロイセン、バーデン、バイエルン、ハノーファー、ヘッセン・カッセル、ザクセン、ヴュルテンベルク)の外交会議で最初のジュネーブ条約(いわゆる赤十字条約)が調印され、ここに国際赤十字組織が正式に誕生しました。
イタリア統一戦争は、イタリア独立戦争とも云う。
イタリアがリソルジメント(19世紀イタリアの国家統一運動)の運動を通して独立と統一を達成した際、オーストリアに対して行った戦い。
第1回(1848年〜1849年)は敗北してサルデーニャ国王カルロ・アルベルトは退位したが、イタリアはサルデーニャ首相カブールのもとに勢力を回復する。
第2回(1859年〜1860年)はフランスと同盟してソルフェリーノの戦でオーストリア軍を破り、フランスの脱落(ビラフランカの和約)後は独力でほぼ半島全土を統一。
第3回(1866年)でオーストリアからベネチアの奪回に成功した。
ナイチンゲール(1820-1910)
英国の看護婦。1854年クリミア戦争に際し、篤志看護婦を率いて野戦病院で活躍。帰国後、ロンドンの著名な病院聖トマス病院にナイチンゲール看護学校を設立するなど、多くの病院・施設の開設や改善に努力し、近代的看護技術の開拓者となった。
1920年彼女の業績を記念してフローレンス・ナイチンゲール記章が制定され、隔年に国際赤十字委員会から各国の功労ある看護婦に授与されている。
『ナイチンゲールは赤十字社活動には関わっておらず、むしろボランティアによる救護団体の常時組織の設立には真っ向から反対していた。』そうです。
クリミア戦争(1853〜1856)
ロシアと、トルコ・イギリス・フランス・サルデーニャ連合軍との間で起きた戦争。
聖地エルサレムの管理権をトルコに要求して南下を図ったロシアに対し、阻止しようとするイギリスなどがクリム(クリミア)半島に出兵して参戦。ロシアが敗北した。
クリミアの略歴
15世紀にクリミア・ハン国とオスマン帝国の支配下となり、18世紀まで続いた。
1783年ロシア帝国によるクリミア・ハン国併合。
1921年にソビエト連邦の下にクリミア自治ソビエト社会主義共和国が設置された。
1945年に廃止され、代わってクリミア州が置かれた。
1954年にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国からウクライナ・ソビエト社会主義共和国に移管された。
1991年にソビエト連邦の崩壊に伴いウクライナが独立すると再び自治共和国の地位を得た。2014年クリミア危機でウクライナ国内法を無視する形で一方的に独立を宣言。続いてロシアによるクリミアの併合が宣言され両国による領有権をめぐる対立が続いている。
ロシア連邦はクリミアでの軍備拡張との要塞化、クリミア・タタール人の弾圧などを進め、2022年ロシアのウクライナ侵攻ではウクライナに対する攻撃の策源地として利用した。
日本赤十字社は、
その前身である博愛社は1877(明治10)年の西南戦争時に設立されました。
1886(明治19)年ジュネーヴ条約に調印した日本政府の方針により、翌1887(明治20)年に日本赤十字社と改称した事が現在の日本赤十字社という呼称の始まりです。
イトスギと云えば藝術にも疎いわたしでも画家・ゴッホが思い出されるのです。
そのようなこともあり、今回この「(青少年赤十字再建25周年記念)イトスギ」を取り上げました。
また、わたしがまったく間違っていたナイチンゲールに関連して、ロシアのウクライナ侵攻で再び注目されている(ロシアに併合されている)クリミアについても調べてみました。
2014年はじめてこのメモリアルパークを撮影した時も写っていたこの糸杉でしたが見ただけでした。
コロナ禍の2021年定期検診で広島赤十字・原爆病院に来ましたが、予約時間には少しばかり時間があったのでここメモリアルパークを久しぶりに訪ね、改めて説明文(上記)もて読んでみたのです。
読んでみると、
わたしは赤十字の“発祥の地”も“創立者”も知らない無知な輩と云うことが痛いほど分かったのです。
昔、ロシアコインを収集していた時、ニコライ一世のことなどを調べていた時、露西亜の南下政策で起こったクリミア戦争でのナイチンゲールの活躍があったことを知り、それが国際赤十字の根っこになったのかと間違った認識をもったことを知ったので、今回この頁を編集したのです。
22..12.15.裕・記編集

14.02.22.撮影
広島市中区千田町2-5-64  日本赤十字社広島県支部(広島赤十字・原爆病院メモリアルパーク内)

21.12.09.撮影
(2021年久しぶりに撮影しました)

21.12.09.撮影
(経年変化で碑文が輿水らくなってきていましたがまだ読めました)

21.12.09.撮影
(2014年に比べれば、少し枝を茂らせ幹も延びているようです)
ゴッホが描いたようなイトスギになるにはあと何年くらいかかるのかと思ったりしました



「植物」編



広島ぶらり散歩
(移設前)広島赤十字病院原爆殉職職員慰霊碑
広島赤十字病院原爆被災説明板
  (原爆で)感光したレントゲンフィルム
(移設前)被爆した建物一部を保存
皇紀2600年記念碑
(枯死した)被爆にわうるし、十字架
(移設前)原爆の絵を街角に返す会の碑
(移設前)マルセル・ジュノー博士記念碑(壁付け)
圓鍔勝三作:調べ
柳原義達作:道標・鳩
流政之作:ユメコン
広島赤十字・原爆病院メモリアルパーク
  被爆した広島赤十字病院:説明碑
  (移設)被爆建物の一部を保存展示
  (移設)原爆殉職職員慰霊碑など
  (移設)原爆の絵:第九号碑
  (移設)マルセルジュノー博士記念碑(壁付け)
  献身の人を偲んで・碑
  広島赤十字看護専門学校・記念碑
  (青少年赤十字再建25周年記念)イトスギ


広島赤十字原爆病院(概説)


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