広島ゆかりの人たち -外国人編-

  多くの外国の人たちが、ここ広島の地にゆかりがあり、足跡を残しています。
最初に編集した「広島ゆかりの人たち」編の中から外国の人たちを分離独立した頁です。
原爆資料館50周年記念展で(武力闘争の)エルネスト・チェ・ゲバラ(1928-1967:ラテンアメリカの革命家:アルゼンチン出身)が1959(昭和34)年平和記念公園を訪れ原爆死没者慰霊碑に献花したこと等を知りましたが直接的な碑などがありませんのでこの頁には取り上げていませんが。
藝術分野 民間・文化分野   政治・軍分野  建築分野 スポーツ分野  (明治以前)歴史分野
歴代広島城主 歴代広島県知事 歴代広島市長  外国人編
14.05.01.更新   04.09.26裕・記編集
外国人編
(ペドロ)アルペ
(ノーマン)カズンズ
(フィリップ)ノエルベーカー
(マルセル)ジュノー
(フロイド・W)シュモー
(ナニ・ベット)ゲーンス
(ハリー・S)トルーマン
(ジャワハルラール)ネール
(イサム)ノグチ
(アリス)ハーズ
(ラダビノート)パル
ピウス12世
(エドマンド)ブランデン
(ヘンリー)ムーア
(アイラ)モーリス
(エディタ)モーリス
ヨハネパウロ2世
(フーゴー)ラサール
(バーバラ)レイノルズ
(ヤン)レツル
                         外国の人物・詳細
ペドロ・アルペ
Fr. Pedro Arrupe
1907-1991
スペインのバスク地方ビルバオ生まれ。1927年イエズス会に入会、1936年司祭叙階後、1936(昭和11)年来日、1940(昭和15)年山口教会主任司祭を経て1942(昭和17)年から12年間イエズス会長束修練院院長及び修練長。
1945年(昭和20)8月6日原爆投下からは多数の被災者を修練院に収容し、医学専攻の力量を発揮し治療にあたる。1954(昭和29)年日本準管区長となり東京に赴任。1958年から7年間日本管区長。1965年5月イエズス会総長に選出。1983(昭和58)年総長を辞す。1991(平成3)年2月5日帰天されました。

関連頁 ペトロ・アルペ神父像
経歴は碑文を参考にしました。08.09.25追記
ノーマン・カズンズ
Norman Cousins
1915-1990

米・ニュージャージー州生まれ。コロンビア大学卒。
米国ニューヨークの文芸雑誌「土曜文学評論(サタデー・レビュー)」の編集長として、1949(昭和24)年広島を訪れ、ルポ「4年後のヒロシマ」を発表。これを契機に、流川教会の谷本清牧師らとともに原爆により家族を失った子どもに対する「精神養子運動」を行い、400名を超える子どもたちに米国から物心両面で支援しました。
さらに1955(昭和30)年谷本牧師や原田東岷医師らが取り組んでいた原爆後遺症のケロイドの治療に関わり、25名の女性の渡米治療に尽力し、彼女たちに将来に対する希望と自信を与えました。
「サタデー・レビュー」編集長を引退した後は、カリフォルニア大学医学部大脳研究所教授。
1964(昭和39)年、広島市特別名誉市民の称号を受けました。
1987(昭和62)年第1回谷本清平和賞受賞。
関連頁 ノーマン・カズンズ記念碑
フィリップ
   ノエルベーカー

Philip John Noel-Baker
1889-1982
英国の政治家。クエーカー教徒の家に生まれる。ケンブリッジ大学卒業。労働党員。
1920年アントワープオリンピック男子1500m銀メダリスト。1924年ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LSE) 国際関係学部教授。1929年庶民院議員当選。1977年(一代)男爵に叙せられ、貴族院議員。
1919年パリ講和会議から軍縮に尽力、その後反核、平和運動を推進。1959(昭和34)年ノーベル平和賞受賞。
1963(昭和38)年(広島)原爆忌に出席したのをはじめ、5回にわたって広島を訪れ「ヒロシマを世界にアピールしました。
関連頁 ノエルベーカー卿記念碑
マルセル・ジュノー
Marcel Junod
1904-1961

スイスの医学者。ラ・ショー・ド・フォンに生まれる。ジュネーヴ大学で麻酔科学専攻。
赤十字国際委員会派遣員として1935年10月エチオピアへ赴く(第二次エチオピア戦争)、1936年7月スペインへ赴く。(スペイン内戦)以後、第二次世界大戦中ドイツ・ポーランド・フランス・ギリシャを廻り、人道支援(捕虜や被災者の安否確認、捕虜の郵便物交換の仲介、捕虜や被災者への救護物資の手配、医療支援等々に尽力。
1945(昭和20)年8月9日赤十字国際委員会の主席代表として東京に着任、当初来日の目的は連合軍捕虜等の動静を調査することだったそうです。
被爆の惨状を知り9月8日に15トンもの医薬品
と共に広島入りし博士は赤十字がもつヒューマニズムの精神で被爆者医療に自らも携わり、多くの市民が救われたそうです。
1946(昭和21)年日本を離れる。
(医薬品の内訳は)乾燥血漿(血液から血球を除いて血漿を凍結乾燥したもの)、ペニシリン(抗生物質のひとつ)、サルファ剤(細菌感染症に対する化学療法剤)、DDT、包帯などです。
【15トンの医療品のうち何者かが2トンほど抜き取ったという不祥事があったそうです】
関連頁 マルセル・ジュノー博士記念碑(平和記念公園) マルセルジュノー博士レリーフ(赤十字) ジュノー広場
フロイド・W・シュモー
Floyd Wilfred Schmoo
1895-2001
米国カンザス州生まれ。森林学者(ワシントン大学で森林学、海洋学を学ぶ)。1928年ワシントン大学で森林学講師。クエーカー教徒。広島市の特別名誉市民・1983(昭和58)年11月称号贈呈。
1948(昭和23)年原爆によって住み家を失った市民のため、住宅建設資金の募金運動を始め、翌(1949)年には広島を訪れ、寄せられた募金と学生30人余りの応援も得て労働奉仕により住宅を建設し、市に寄贈するなど、広島市の復興に大きな役割を果たしました。4年間にわたる奉仕で寄贈された住宅は、南区皆実町、中区江波など計19棟(15棟+1会館とも)にのぼりました。米・シアトル市には1990(平成2)年シュモーの働きかけで建設された「シアトル・ピース・パーク」があり中央にサダコ像が設置されています。
1982(昭和57)年勲四等瑞宝章受章。
尊敬を込めてシュモー博士と呼ばれ、説明板にも記述していありますが、実際は博士号は取得していなかったそうで、1983(昭和58)年その事を知ったタフツ大学准教授だった秋葉忠利(広島市長在任:1999-2011)が同大学に「ヒロシマの恩人」シュモー氏に『人間愛』の名誉博士号を贈ろうと呼びかけ実現したそうです。
関連頁 シュモーの庭、 シュモー会館シュモーハウス 、ヒロシマの忘れ得ぬ人びと(説明板)
    14.01.27.追記
ナニ・ベット・ゲーンス
Nannie Bett Gaines
1860-1932
広島女学院初代校長(校母)。米国ケンタッキー州生れ。フランクリン女子大卒業。
1887(明治20)年南メソジスト教会の宣教師として来広。ランバス監督の任命で、砂本貞吉の願う広島英和女学校(広島女学院の前身)の初代校長に就任。校長在任34年。退任後も名誉校長として45年間広島でキリスト教と女子教育のため働く。比治山に(当時は認められていなかった外国人の埋葬)特例として埋葬、墓標には「Workers together with God」と刻まれています。

関連頁 校母ゲーンス先生胸像   ゲーンス先生の墓 09.07.28追記
ハリー・S・トルーマン
Harry Shippe Truman
1884-1972
米国政治家。フランクリン・ルーズベルト(1882-1945)の死により副大統領から第33代大統領となり、1948年再選(在任1945年4月12日-1953年1月20日)。民主党選出。
日本への原爆投下命令はポツダム宣言発表の一日前、1945(昭和20)年7月25日に行いました。二発目の長崎投下後「さらに10万人も抹殺するのは、あまりにも恐ろしい」として、3発目以降の使用停止命令を出したとされています。1953(昭和28)年1月7日には、水素爆弾の開発を発表しました。
第二次世界大戦の戦後処理を担当、マーシャル-プランを初め、対共産圏封じ込め政策をとりました。

関連頁 爆心地・原爆被災説明板
ジャワハルラール・
        ネール
Jawaharlal Nehru
1889-1964
インドの政治家。インド北部、ウッタルパルデーシュ州でバラモン教の弁護士家庭で生れる(父モティラル、母サブルプラニ)。 16歳で父と一緒に渡英、ケンブリッジ大学に留学。 1912年英国弁護士資格取得後、帰国。1916年ガンジーと出会いともにインド独立運動に参加、国民会議派を指導、英国政府より9回も逮捕・投獄される。1947年8月インド独立の際初代首相に就任。1964年まで首相。
ひとり娘のインディラ(1917-1984 )はのちの首相。
1957(昭和32)年10月9日来広、平和記念公園を訪れました。
関連頁 記念樹・ヒマラヤスギ   二葉山平和塔(仏舎利塔)
イサム・ノグチ
Isamu Noguchi
1904-1988
米国の彫刻家。ロサンゼルス出身。コロンビア大医学部在学中彫刻に転じた。野口米次郎(1875-1947詩人)の子。
パリでブランクーシに師事、のち中国、日本で書、造園、陶芸をまなぶ。1946(昭和21)年「14人のアメリカ人展」にえらばれれ、以後造園、家具デザイン、舞台設計など幅広い分野で活躍した。作品にパリのユネスコ本部庭園などがある。1951(昭和26)年山口淑子(李香蘭)と結婚、1955(昭和31)年離婚。
“イサム・ノグチ庭園美術館”(香川県木田郡牟礼町大字牟礼)、64歳の時に日本で構えたアトリエの地にある。
関連頁 平和大橋  西平和大橋   (原爆死没者慰霊碑)
やまぐちよしこ
山口淑子
1920-2014
昭和期の女優・政治家。中国・撫順に生まれ。翊教高女(北京)卒。本名・大鷹淑子。芸名・李香蘭。
1937(昭和12)年李香蘭として映画デビュー。1939年「白蘭の夜」、1940年「支那の夜」がヒット、慰問歌手として戦地を回る。戦後は本名の山口淑子で映画出演、渡米して1951(昭和26)年「東は東」に出演、同(昭和26)年彫刻家イサム・ノグチと結婚、1956(昭和31)年離婚。1958年外交官・大鷹弘と再婚。1974(昭和49)年参院選自民党から出馬連続3期当選。
アリス・ハーズ
Alice Herz
1883ー1965
(独生まれ)米国人。1965(昭和40)年3月米国のベトナム侵攻に抗議して焼身自殺。
平和基金は彼女の遺志=平和運動を通じて世界平和・民族解放・社会進歩に寄与する事を目的に1966(昭和41)年に設立されたそうです。

関連頁 炎の碑(アリスハーズ平和基金受賞記念碑)
ラダビノート・パル
(ラダビノード・パール)
Radhabinod Pal
1886-1967
インドの国際法学者。ベンガル州出身。カルカッタ大学・理学修士取得。カルカッタ大学法学部卒業。
1923年〜1936年カルカッタ大学法学部教授。1941年カルカッタ高等裁判所判事。1944年カルカッタ大学副総長。1946(昭和21)年極東国際軍事裁判(東京裁判)の印度代表判事。この裁判で多数意見に対して国際法・英米法・証拠法に基づき被告人全員無罪の少数意見を提出した。のち国際連合司法委員会議長など歴任。1966(昭和41)年10月四度目の来日。その際、一等瑞宝章授与。
国家として行われた行為の責任を個人に負わせることは不可であるとの立場であるそうです。(これは日本無罪論として紹介しているものがあるがそれはパルの本意ではないとのこと)
原爆ドーム1回目の保存工事{1967(昭和42)年}のための“原爆ドーム保存募金”に協力されています。
関連頁 原爆死没者慰霊碑:碑文主語の論争  大亜細亜悲願之碑
参考頁 (靖国神社建立)パール博士顕彰碑
13.11.01追記
ピウス12世
(ピオ12世)
Papa Pio XII
1876-1958
ローマ法王(在位:1939年3月2日-1958年10月9日)。本名 マリア・ジュゼッペ・ジョバンニ・エウジニオ・パチェッリ(Maria Giuseppe Giovanni Eugenio Pacelli)。
未曾有の世界大戦前後という困難な時代であり、(1933ヒトラーのナチス・ドイツと政教条約の締結などなど)さまざまな批判にさらされながらローマ法王の職務を全うした。

関連頁 世界平和記念聖堂
エドマンド・ブランデン
Edmund Charles
          Blunden
1896−1974

英国の詩人。ロンドン生まれ。第一次世界大戦に従軍。戦後オックスフォード大学ザ・クイーンズ・カレッジに復学したが中退。
1922年ホーソーンデン賞受賞。1924(大正13)年から3年間、東京帝国大学に英文学の教師として赴任。1931年〜1944年オックスフォード大学マートン・カレッジ研究員就任。
戦後1947(昭和22)年〜1950(昭和25)年英国政府の文化使節として再び来日。1948(昭和23)年冬、広島を訪れ、「HIROSHIMA ―1949年8月6日によせて―」という詩を残す。1967年〜1968年香港で英文学を講じる、その後オックスフォードに戻り詩学教授を務めた。


関連頁 (中央図書館前の)エドマンド・ブランデン詩碑  (宮島の)エドマンド・ブランデン詩碑
ヘンリー・ムーア
Henry Spencer Moore
1898-1986
彫刻家。英国ヨークシャー州、坑夫の子として生まれる。師範学校後、第一次世界大戦に志願兵として入隊。その後、ロンドン王立美術学校。1948年ヴェネツッア・ビエンナーレ彫刻部門で国際彫刻賞受賞。1953年サンパウロ・ビエンナーレで国際彫刻賞受賞。
関連頁 (比治山公園の)ムーアの広場・「アーチ」
アイラ・モーリス
1903.11.11-1972
仏在住米国人作家。ハーバード大学卒。外交官。
原爆被爆の実相に触れ被爆者の苦しみを知って1957(昭和32)年被爆者の精神的な安らぎと援護のため、私費を投じて夫妻で協力して南区宇品に「広島憩いの家」を開設しました。その後、運営資金を捻出するため、アメリカ・ニューヨーク市に広島ハウス財団を設立するなど、被爆者の援助に尽力されました。1967(昭和42)年広島市特別名誉市民の称号を受けました。

関連頁 ヒロシマの忘れ得ぬ人びと(説明板)
エディタ・モーリス
1903.3.5-1988
スウェーデン軍人の家庭に生まれる。英・ロンドンで勉学中アイラ・モリスと知合い、結婚。夫とともに「広島憩いの家」創設に尽力。1959(昭和34)年広島の被爆者に取材した小説『ヒロシマの花』をロンドン、パリ、ニューヨークで同時出版。ベストセラーになり30ヶ国で翻訳され300万部を売上げ、シュバイツァー文学賞を受賞しました。1967(昭和42)年広島市特別名誉市民の称号を受けました。
関連頁 ヒロシマの忘れ得ぬ人びと(説明板)
ヨハネパウロ2世
(ジョヴァンニ・パオロ2世)

Karol Josef Wojtyla
1920-2005

ポーランドのクラークフ出身 、本名カロル・J・ボイチワ。1978年10月16日17時15分コン クラーベの結果264代法王に選出される。
1946年10月に助祭に任命され、11月に司祭。そしてロー マに留学。さらに1948年Jagiellonian大学の神学修士の学位を取得。1960年 クラークフの司教補、1963年参事代理となり1966年クラークフ司教。そして1968年任枢機卿。
日本には1981(昭和56)年2月に来訪、2月25日広島を訪れ、全世界に向けて平和アピールを発しました。
1981年5月13日トルコ人アリ・アジャが法王 を狙撃、4時間余の大手術で回復。 1986年ユダヤ教の教会をキリスト教史上初めて訪問、1993年イスラエルとバチカンの国交が樹立。また英国国教会とも 1989年ロバート・ランシー・カンタベリー大司教との会談が実現。キリスト生誕2000年を祝う「大聖年」を主宰し、分裂したキリスト教会の和解や異宗教との対話に力を入れていた。2005(平成17)年4月2日午後9時37分(日本時間3日午前4時37分)死去。

関連頁 ローマ法王平和アピール碑  世界平和記念聖堂  YMCA原爆瓦記念柱碑
参考頁 (長崎浦上天主堂   (長崎)大浦天主堂
2011(平成23)年5月2日新聞を見ていると『近代最速の「福者」に』とありました。
宗教間の対話を進め、信者らから敬愛された前ローマ法王ヨハネ・パウロ2世(在位:1978-2005)をカトリックで最高位の崇敬対象である「聖人」の前段階である「福者」に叙する列福式が1日、バチカンのサンピエトロ大聖堂で行われた。
列福までには死後数十年かかるのが通例だが、2005年85歳で死去してからわずか6年余りという異例の短期間で福者に列せられた。
福者になるためには奇跡を起こしたと認められることが条件で、フランス人修道女のパーキンソン病がヨハネ・パウロ2世の死後に治癒したことが奇跡とされた。今後、別の奇跡が認定されれば、必要な手続きを経た上で、キリストの教えを忠実に守った聖人に加えられる。
』との記事です。
2013年7月2日聖人になる条件である二つ目の「奇跡」が認められ、2014年4月27日に列聖式が執り行われました。
2005年ヨハネパウロ2世の死去から6ヶ月後、フランス人の修道女のマリ・シモンピエールのパーキンソン病を治癒したことが奇跡と認められ、福者となりました。
彼女は、奇跡が起こる前夜、同氏の名前を鉛筆で書いて祈っていたとのことですが、科学的な観点から治癒の因果関係は解明できなかったそうです。
福者になった後、聖人になるにはさらにもうひとつ奇跡を起こさなければなりません。
ヨハネ・パウロ2世は福者になったわずか6年後の2011年5月1日コスタリカ出身の女性を病から救ったことが認められました。このときも女性は、枕元に立ったヨハネ・パウロ2世の姿を見たそうです。
14.05.01追記     11.05.02追記
フーゴー・ラサール
Hugo Lassalle
1898-1990
1948(昭和23)年日本に帰化。「愛宮真備」の項をご覧ください。
バーバラ・レイノルズ
Barbara Reynolds
1915-1990

クエーカー教徒。ヒロシマの「語り部」として活動されました。
1951(昭和26)年広島市比治山の当時・原爆傷害調査委員会(ABCC)研究員の夫アール・レイノルズ博士(Earl Reynolds:人類学者)とともに広島を訪れました。原爆被害の惨状に胸を痛め、反核・平和運動に取組み、1958(昭和33)年米国水爆実験・太平洋エニウェトク環礁の立入り禁止海域に、夫と一緒にヨットで乗り入れ、抗議しました。
広島市民との交流を深める中で、1962(昭和37)年には被爆者と原爆孤児2人を伴って「ヒロシマ平和巡礼」を敢行。米英両国を巡り、スイス・ジュネーブの軍縮会議でも核実験停止などを訴えました。 さらに1964(昭和39)年「広島・長崎世界平和巡礼」を提唱し、国内外の多くの人びとの協力を得て実現。被爆者や学者、通訳ら40人が加わり、七十五日間をかけて米国、カナダ、英国、フランス、ベルギー、東西ドイツ、ソ連の八ヶ国を平和行脚しました。 1965(昭和40)年には「ヒロシマの世界への窓口」として、ワールド・フレンドシップ・センターを創設。被爆者の援護活動の傍ら、世界各地からセンターを訪れる若者や学者らに、ヒロシマを深く体験するための機会を提供しました。 1969(昭和44)年に帰国した後も、1975年にはオハイオ州ウィルミントン大学に「広島・長崎記念文庫」を開設。この年、広島市はバーバラさんの業績をたたえ特別名誉市民章を贈りました。 1979年カリフォルニア州ロングビーチに移り住んだ後は、ベトナムやカンボジアからの難民の救済に尽くしました。その一方で1982(昭和57)年には広島の女性被爆者とワゴン車で米大陸を横断。行く先々で被爆証言の集いを開らきました。 1990(平成2)年心臓発作のため逝去享年74歳でした。

関連頁 バーバラ・レイノルズ記念碑 11.07.26編集
ヤン・レツル
Jan Letzel
1880-1925
セセッション(分離)派の建築家。チェコのナホトに生まれる。プラハ美術専門学校建築科卒。
1907(明治40)年横浜のデ・ラランデ事務所で働くため来日。
1909(明治42)年同じチェコ人の仲間と共同で設計事務所設立し独立、日本での本格的な建築活動、デザインを担当した。
宮城県の県営松島パークホテル(1913年竣工・1969年焼失)を当時の寺田祐介宮城縣知事が気にいりその後廣島縣知事になったことから廣島縣物産陳列館(1915年竣工・1945年被爆)の設計者として指名したそうです。広島県には他に宮島ホテル(1917年竣工・1952年焼失)があったそうです。

関連頁 廣島縣産業奨励館(原爆ドーム)   ヤン・レツル略歴
※参考にした資料は、碑文などを参照しました、他にも参考にした図書です。



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