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えのみや まきび
愛宮真備
1898-1990
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神父。独・ウェストファーレン生まれ。本名フーゴー・ラサール(ラッサール)Hugo
Lassalle
1919年イエズス会に入り、1929(昭和4)年来日。1990(平成2)年独逸で死去。
1940(昭和15)年ドイツ西管区(=1935〜1949まで日本イエズス会はドイツ西管区に属していた為)から派遣され責任者の立場であった。1945(昭和20)年8月6日被爆。同地に世界平和記念聖堂の建設をすすめる。原田祖岳らに禅をまなび、欧州で指導。
1948(昭和23)年日本に帰化。著作に「禅−悟りへの道」などがある。
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おおがいちろう
大賀一郎
1883-1965 |
植物学者。岡山県吉備町出身。1909(明治42)年東京帝国大学理科大学植物学科を卒業。
大学院に進学し藤井健次郎に師事したが、まもなく第八高等学校教授に就任。中国東北地区を視察中、普蘭店の泥炭地で埋蔵500年と推定されるハスの実を採集、1917(大正6)年これの発芽に成功して以来ハス研究に進み、「古ハスの果実の研究」で理学博士の学位を取得した(1927)。以後、関心は、ハス糸で織ったと伝承された織物、それに関する工芸美術品の研究に及び、古文化財の自然科学的な方法による研究の先駆けとなった。1951(昭和26)年には千葉市花見川区検見川(けみがわ)町の遺跡から縄文時代(推定2000年前)に咲いていた古代ハスの種3粒を発見し、そのうちの一粒を開花させ「大賀ハス」の名を得た。
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かいづかしんぱち
海塚新八
1847-1913 |
五日市の海老塩浜で塩田を経営していた清水新平の次男。1867(慶応3)年西本川の肥料問屋・海老屋の養子になり、その時養父から千円をもらい10年間貯蓄して財を増やしました。
綿花栽培(の為の肥料も)が衰退することを見越し、金銭貸付に主力を移していきました。百四十六国立銀行副頭取。広島貯蓄銀行頭取。広島呉電力会社取締役。広島米取引所理事長など歴任。1916(大正5)年7月海塚を顕彰してこの海塚翁碑が建立されています。
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きりはらしげみ
桐原葆見
1892-1968 |
心理学者。広島県出身。東京帝大卒。
1921(大正10)年倉敷労働科学研究所(現日本労働科学研究所)にはいり、1951(昭和26)年所長。1961(昭和36)年日本女子大教授。月経と作業能力の関連を研究し桐原ダウニー式性格検査法を開発するなど産業心理学の分野の開拓につくした。
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くまだ むめ
熊田ムメ
1900-1975 |
料理研究家。広島県出身。広島高女卒。北大路魯山人(1883-1959)の妻。
広島第一高女教諭。東京帝大病院特別調理所主任。1938(昭和13)年離婚した魯山人と結婚。1950(昭和25)年広島女学院大学教授。著作「料理の本質と作り方」「調理法の研究」など。
【言葉】やわらかい持ち味のものは淡味(たんみ:≒あっさりした味)に、淡味なものは温かく、温かければ汁添えて・・・「調理法の研究」より。
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これやまえかく
是山恵覚
1875-1931 |
僧侶、仏教学者。備後国東大田村(現・広島県世羅郡世羅町)真行寺・恵順の長男。
1871(明治4)年教専寺住職の福間浄観に入門し、宗学を学ぶ。1875(明治8)年師に従って京都に上り、西山別院内の教授校や大教校で学業を続けた。のち一時的に崇信学校の教員となる。
1879(明治12)年より大分の松島善譲(1806-1886) に師事し、宗学研究を再開。1888(明治21)年父の死で真行寺住職を継ぎ、寺内に光闡寮を開いて後進を指導。1896(明治29)年真宗の大学林教授。1900(明治33)年仏教大学(後の龍谷大学)教授就任。浄土真宗学の第一人者と云われる1919(大正8)年教授の職を退く、後は勧学寮長・宗学院長を歴任。
著書「往生論註講義」「往生礼讃講録」「安心決定録講話」などがある。 |
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ささき さだこ
佐々木禎子
1943-1955 |
(昭和時代前期の)原爆被爆者。広島市出身。
1943(昭和18)年1月7日佐々木理髪店の長女として生まれました。
1945(昭和20)年8月6日(月)2歳で(爆心地から約1.7Kmの楠木町の自宅で)被爆、その後母に背負われ避難、その際、三篠橋付近で「黒い雨」に打たれました。
1954(昭和29)年幟町小学校小学6年生のとき白血病と診断され、(幟町中学校に在籍しましたが通学は出来ず)1955(昭和30)年10月25日12歳で死去するまでの八ヶ月(広島赤十字病院で)の闘病生活の間、病気が治ると信じて折り続けた千羽鶴。千羽を超えた後もベットの上で黙々と折り続けました。
その死をいたむ級友たちの行動が募金運動に発展し、1958(昭和33)年広島市の平和記念公園内に「原爆の子の像」がつくられました。
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ささき しょうご
佐々木省吾
1840−1919 |
明治時代の教育者。広島藩、医師・佐々木元良の長男。名は熊。字は士璋。号は星峡。
はじめ、儒者・末田重邨(じゅうそん)の三亦舎(さんえきしゃ)に学び先生の代行を務めるほどになった。広瀬旭荘(きょくそう),柴秋村(しばしゅうそん)らとまじわり,詩文をよくする。沼田郡久地村の粟谷氏が開いた塾で教員を務めたがのち可部に帰り、家塾を開き子弟の教育に当った。1872(明治5)年太政官布告第214号学制でその塾を提供し小学校としました。その後、自宅に塾を設け遷革舎と名付け子弟の教育に当った、その教育は清廉を旨とし実践を伴わない理論を排し(門弟はこの地方の政治、経済、文化の興隆に貢献し)ました。のち郡視学をつとめる。1919(大正8)年8月3日死去。
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ささきじゅんぞう
佐々木順三
1908-2006 |
神楽研究者。広島県安芸高田市美土里町本郷出身。広島県広島師範学校卒業。
小中学校長をはじめ永い教員生活の傍ら、郷土芸能の保存伝承に意を尽くすなど、郷土史の研究に情熱を注いだ。特に第二次世界大戦敗戦後、「芸北神楽台本集」を出版するなど、新作高田舞といわれる創作神楽を発表し、広島県の神楽を代表する芸北神楽の隆盛の礎を築いた。1971(昭和46)年には、町史「美土里町の歴史と伝説」を編集委員長として発行、町の文化財保護委員長、社会教育委員、文化協会初代会長、社会福祉協議会会長等の要職を歴任した。1986(昭和61)年勲五等瑞宝章受章。
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すなもとさだきち
砂本貞吉
1856-1938 |
牧師。広島己斐生れ。18歳、航海士を志し海軍に入隊。26歳渡米しサンフランシスコで牧師ギブソン夫人に出会い、神学と英語を学ぶ。30歳で帰国。以後キリスト教を布教。流川教会の基を築く。子女の英語教育にも努め1896(明治19)年広島女学会を創設。翌(1897)年英和女学校。1896(明治29)年広島女学校、1932(昭和7)年広島女学院と改名。全国を布教1938(昭和13)年東京で病没。
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たかまつ ごほう
高松悟峰
1866-1939 |
浄土真宗本願寺派勧学。安芸国安芸郡中野村生まれ。隨泉寺11世秀法の次男。幼名:秀若。(広島)進徳教校中等科、(京都・本願寺)大教校高等科卒業。
1898(明治31)年西向寺16世覚了の養嗣となる。1906(明治39)年西向寺内に創設された真宗学寮の学頭になる。1920(大正9)年勧学となる。
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たけつる まさたか
竹鶴政孝
1894-1979 |
ウイスキー製造技術者。ニッカウヰスキー創業者。大阪高等工業学校醸造科卒業。1918(大正7)年スコットランドのグラスゴー大学で応用化学を学ぶ。1923(大正124)年寿屋入社。寿屋山崎蒸溜所初代工場長、日本初の本格スコッチ・ウイスキー製造指揮。1934(昭和9)年大日本果汁(現・ニッカウヰスキー)創立。1940(昭和15)年ニッカウヰスキーを発売。1969(昭和44)年勲三等瑞宝章受章。
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(所得倍増を唱えた)池田勇人元首相は、旧制:忠海中学時代の後輩で寮では、竹鶴の布団の上げ下ろしの係だったそうです。 |
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たなか いと
田中イト
1855-1934 |
うじな保育園創立者、広陵中学校創設者の一人。大阪生れ。広島市の教育振興に大きな貢献。
1909(明治42)年広島市立宇品尋常小学校に運動場敷地(814坪)を無償寄与。1915(大正4)年4月集会所(講堂)として建物寄贈、館名を「奨学館」と命名。1921(大正10)年に校地約6000坪と10万円を寄付し、鶴虎太郎氏と共に宇品町に「財団法人広陵中学校」を設立。1928(昭和3)年学園創設のため約1000坪の敷地と10万円を寄付。1929(昭和4)年田中喜四郎氏らと現うじな保育園「財団法人喜清会宇品学園」を創立。その発展を願いつつ5年後の1934(昭和9)年7月8日79歳で永眠。広島市の教育振興に大きな貢献。
1909(明治42)年広島市立宇品尋常小学校に運動場敷地(814坪)を無償寄与。1915(大正4)年4月集会所(講堂)として建物寄贈、館名を「奨学館」と命名。1921(大正10)年に校地約6000坪と10万円を寄付し、鶴虎太郎氏と共に宇品町に「財団法人広陵中学校」を設立。1928(昭和3)年学園創設のため約1000坪の敷地と10万円を寄付。1929(昭和4)年田中喜四郎氏らと現うじな保育園「財団法人喜清会宇品学園」を創立。その発展を願いつつ5年後の1934(昭和9)年7月8日79歳で永眠。
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つるのぼる
鶴 襄
1915-2006
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鶴学園創立者。広島市竹屋村(現・中区竹屋町)生れ。旧制福岡中学校卒業。鶴虎太郎(鶴学園校祖・1870-1951)の四男。
1937(昭和12)年満州に渡る(南満州鉄道入社)、1946(昭和21)年11月引揚。1956(昭和31)年2月23日広島高等電波学校広島県より許可される。1958(昭和33)広島電波工業高等学校開校。1961(昭和36)年4月広島工業短期大学開校。1963(昭和38)年広島工業大学工学部開学。
広島工業大学、広島工業大学附属広島高等学校、広島工業大学専門学校、デネブ高等学校、広島工業大学附属中学校、なぎさ公園小学校など7校を創設。学校法人鶴学園理事長。財団法人ヒロシマ・ピース・センター理事長。(学)鶴学園名誉総長。2006(平成18)年12月21日死去、91歳。
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経歴資料は鶴学園発行「生い立ちと教育精神」を参照しました |
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どいぜんえもん
土井善衛門
1828-1883
(号:百穀) |
私立学校創立者。佐伯郡己斐村(現:広島市西区)生まれ。名は積善、通称は善右衛門、号は百穀。家は代々己斐村庄屋。幼少から頼氏の門に学ぶ。庄屋、戸長、県会議員を歴任。
育英に心を注ぐ、1872(明治5)年遷喬舎(せんきょうしゃ)創立。土井学校・日彰館などの塾や学校をひらいた。
地方議会発足後1879(明治12)年広島県会議員。1883(明治16)年4月11日(一説には15日とも)没。1884(明治17)年文部省から従五位が贈られた。
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ながいたかし
永井 隆
1908-1951

(博士34歳の頃) |
(昭和時代の)医学者。島根県松江市出身。長崎医科大学(現長崎大学医学部)卒。
1933(昭和8)年短期軍医として満州事変に従軍。1946(昭和21)年1月教授。母校の物理的療法科部長のとき放射線障害をおう。1945(昭和20)年8月9日(木)11時2分米軍投下の原子爆弾で被爆(爆心地から≒700mの大学研究室で)するこの時右側頚動脈を切っているにもかかわらず「第十一医療隊」を再編し負傷者を救護。カトリック教徒として原爆廃止を祈り、病床で「長崎の鐘」※「この子を残して」などを口述した。
1949(昭和24)年長崎市名誉市民。1951(昭和26)年5月1日死去。5月14日長崎市公葬。
※永井博士自身のなまなましい被爆体験記録。(全焼した自宅では緑夫人を喪った)
☆辞世『白ばらの花より香り立つごとくこの身をはなれ昇りゆくらん』
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ならもとたつや
奈良本辰也
1913-2001 |
日本史学者。山口県出身。京都帝大卒。
西田直二郎(1886-1964、日本史学者)に師事。1948(昭和23)年立命館大教授。維新史を中心に幅ひろく研究をすすめ、部落問題研究所長などをつとめる、1969(昭和44)年大学紛争の中で教授辞任。以後、著述講演などで活躍。著作に「近世封建社会史論」「吉田松陰」「日本近世の思想と文化」など。
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にししんいちろう
西晋一郎
1873-1943 |
倫理学者、文学博士。鳥取県鳥取市出身。東京帝国大学卒業。西順蔵(中国思想史家:1914-1984)の父。1902(明治35)年広島高師教授。1929(昭和4)年広島文理科大学教授。
少年時代から漢学、特に宋学の精神を受継ぎ老荘の思想や仏教哲学を究め、さらに西洋哲学、倫理学を研究し独自な学説を樹立しました。ともすれば西洋の思想、文化こそ世界的普遍的なものとする当時の風潮に対し鋭い批判となり国民的自覚を深めることになり思想界、教育界に置いてその高潔な人格とともに尊信崇敬されたそうです(東洋道徳と西洋道徳の折衷主義に移行していったそうです)。著作に「倫理学の根本問題」「東洋倫理」など。
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はやししげお
林重男
1918-2002 |
写真家。東京都品川区上大崎生まれ。東京写真専門学校卒業。
横浜シネマ現像所勤務。3年間兵役。1943(昭和18)年東方社入社。1945(昭和20)年9月末文部省日本学術研究会議原子爆弾災害調査団の記録映画班(日本映画社)として原爆投下後の広島、長崎撮影。
のち、商業写真家として独立。
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はらだつとむ
原田勉
1914-1985 |
広島酔心調理師専修学校創立者。(現在)広島市安佐南区緑井に生れる。
1950(昭和25)年飲食産業・酔心創業。1967(昭和42)年酔心料理学園設立。1972(昭和47)年酔心調理師専修学校創立。
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ふじかわゆう
富士川游
1865-1940
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医史学者。安芸国沼田郡安村大字長楽寺の人。幼名:充人。1872(明治5)年藤川を富士川に改姓。広島県病院附属医学校卒業。
日本医史学会の組織化に貢献。和漢の古医書を収集、日本医史学を確立。1898(明治31)年から1900(明治33)年独留学、ドクトル・メジチーネの学位を受ける。1912(明治45)年「日本医学史(1904年著)」で帝国学士院恩賜賞受賞。1914(大正3)年文学博士。1915(大正4)年医学博士。
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ふじのじゅん
藤野準
1882−1933 |
機械工学者。愛媛県出身。東京帝大卒。
川崎造船勤務をへて、1912(明治45)年熊本高工教授。1920(大正9)年広島高工教授を兼任。1921(大正10)年広島高工機械工学科長。
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ふたばあきこ
二葉あき子 1915-2011
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歌手。広島市大須賀町二葉出身。本名:加藤芳江。県立広島高等女学校、東京音楽学校師範科卒業。三次高等女学校音楽教師。
レコードデビューは、在学中にコロムビアで吹込んだ「四つ葉のクローバー」という教育レコード。1936(,昭和11)年「愛の揺籃(ゆりかご)」で歌手デビュー。「高原の月」などのヒット曲をだした。1943(昭和18)年結婚し一男(紀:おさむ)をもうけるがすぐに離婚。戦後のヒット曲に「夜のプラットホーム」「フランチェスカの鐘」「水色のワルツ」などがある。
1982(昭和57)年紫綬褒章、1990(平成2)年勲四等瑞宝章を受章。
関連頁 |
(二葉の里歴史の散歩道)二葉あき子歌碑 |
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16.12.05//編集 |
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まさき あきら
正木 亮
1892-1971 |
検察官、法学者、弁護士。佐伯郡玖波村(現・大竹市)出身。東京帝国大学法科法律科卒業。被爆者。
1921(大正10)年司法省監獄局入り。1935(昭和10)年大審院検事。1943(昭和18)年司法省刑政局長。1945(昭和20)年広島控訴院検事長。戦後、1946(昭和21)年名古屋控訴院(現・名古屋高等裁判所)検事長、公職追放により退官、
弁護士となる。1955(昭和30)年「わが国の死刑存置論は欺まん的な刑法理論の上にある」と「刑罰と社会改良の会」を設立。死刑廃止論を社会運動として展開する。
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ますおか とうさく
増岡登作
1891-1969 |
実業家。広島県呉市出身。
1908(明治41)年増岡商店を改組、海軍御用商人。1940(昭和15)年広島県土木工業統制組合理事。1948(昭和23)年増岡組に改組改名社長。1969(昭和44)年勲四等瑞宝章受章。
*次男の博之(1923-2011)は自民党衆議院議員で、厚生大臣も務めました。
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まつしげよしと
松重美人
1913-2005 |
写真家。広島県呉市出身。(旧制)呉中学校卒業。被爆当時、中國新聞社写真部員で中国軍管区司令部報道班員。
翠町の自宅(爆心地から≒2700m)で被爆、1945(昭和20)年8月6日の午前中に撮影した写真(当日撮影5カットの内の一枚)が原爆被災説明板に掲載されています。1978(昭和53)年「広島原爆被災撮影者の会」結成代表。2005(平成17)年1月16日死去されました、92歳。
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まつだじゅうじろう
松田重次郎
1875-1952 |
実業家、マツダ創業者。安芸郡仁保島村向洋生まれ。
(大阪で鉄工所を開き)1906(明治31)年松田式ポンプの製造販売。(広島で)1921(大正10)年コルクを製造する東洋コルク工業(1920年創立)の社長に就任。1927(昭和2)年社名を東洋工業にあらため工作機械メーカーに転身。1931(昭和6)には3輪トラックの製造を開始し自動車業界に進出した。1951(昭和26)年会長。
※マツダの社名は西アジアの神アフラ・マズダと、松田重次郎の姓にちなむ。
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みうら
せんざぶろう
三浦仙三郎
1847-1908 |
酒造家。安芸国賀茂郡三津村の雑貨問屋を営む清水屋忠兵衛の長男に生れる。
明治9(1876)年酒造業をはじめるも、三津村一帯の水は発酵のおそい軟水であるため、当時の酒造技術では硬水による清酒との差をどうすることも出来なかった。
明治30(1897)年苦心惨憺の末、遂に「軟水による改良醸造法」を大成し、先進地に劣らぬ銘醸広島酒をつくりあげる。この酒は、琥珀色に輝き、滑らかな舌ざわりとほんのりとした甘味があり、幾多の賞に輝く逸品であった。
この酒造法を広く酒造関係者に伝え、指導育成に努めたことから、秀れた杜氏が数多く輩出ことになった。 |
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みかみ よしお
三上義夫
1875-1950 |
和算研究学者。広島県高田郡甲立町生まれ。1896(明治29)年仙台市第二高等学校入学、眼疾のため数ヶ月で中途退学。1911(明治44)年東京帝国大学哲学選科入学、後同大学院に入学。
1905(明治38)年和算史の研究に着手、1908(明治41)年帝国学士院和算史調査嘱託1923(大正12)年解嘱。1929(昭和4)年国際科学史委員会委員に選ばる。1933(昭和8)年東京物理学校講師後教授。1949(昭和24)年東北大学より理学博士の学位を授けらる。1950(昭和25)年12月31日甲立町理窓院において没す。
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もりたきいちろう
森滝市郎
1901-1994 |
倫理学者、原水禁運動家。広島県双三郡君田村出身。京都帝大卒。
1945(昭和20)年8月6日広島高等師範学校教員時代に爆心から4km地点で被爆、ガラス片で右目を失明した。
1946(昭和21)年9月9日から治療、両眼失明の危機を回避 するため広島県双三郡吉舎町の星田病院に1947(昭和22)年1月下旬まで入院。この間に「人類は生きねばならぬ」という根本命題のもと平和運動に邁進する決意をする(著「反核30年」に記述)。
1953(昭和28)年広島大教授。1954(昭和29)年原水爆禁止広島県協議会初代事務局長、1955(昭和30)年第1回原水禁世界大会開催にむけ尽力。日本被爆者団体協議会理事長もつとめた。1991(平成3)年原水禁日本国民会議議長。著作に「反核三〇年」など。
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もりもとじゅんこ
森本順子
1932-2017
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絵本作家。被爆者。オーストラリア国ニュー・サウス・ウェールズ州在住。
旧制(広島)女学院高女2年生(13歳)時、雑魚場町へ建物疎開作業に行くはずだったのが、背中を痛めて欠席し、三篠町の自宅(爆心地から≒1.7km)で被爆。京都の大学で美術を学び、大阪で中学の美術教師。
1982(昭和57)年姉が住むオーストラリアに渡り、絵本作家活動をはじめる。1987年「MY HIROSHIMA」を出版(みずからの被爆体験を描いた作品で、日本語や韓国語など14の言語に翻訳される代表作)。2014(平成26)年度(日本国)外務大臣表彰受賞(功績概要:日本とオーストラリアとの相互理解の促進)。2017年9月21日シドニー近郊の病院で死去(脳腫瘍の後遺症)。
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やすだ りよう
安田リヨウ
1884-1977 |
教育者。広瀬村(現・広島市)出身。夫の安田五一と共に広島技芸女学校を創立。「柔(やさ)しく剛(つよ)く」の理念で女子教育を実践しました。
1915(大正 4)年広島技芸女学校創立。1920(大正 9)年広島実科高等女学校開校。1922(大正11)年安田高等女学校開校。1972(昭和47)年学校法人安田学園学園長に就任。1977(昭和52年死去享年93歳。正五位勲三等宝章を授かる。
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やまがたとよたろう
山縣豊太郎
1898-1920 |
飛行士。広島市京橋町山縣家の三男として誕生。1915(大正4)年、伊藤飛行機研究所(千葉県)が開校され第1期生として入校、1917(大正6)年に首席卒業。
1919(大正8)年5月5日東京遷都50周年祝賀行事の日、愛機鶴羽2号で「日本航空史民間人初の宙返り」を達成、1920(大正9)年4月東京〜大阪間往復無着陸飛行大会優勝、そのほか数々の当時の飛行記録を樹立、1920(大正9)年8月千葉県上空で連続宙返り中右上翼が空中分解、キリモミ墜落し死亡。
関連頁 |
(鶴羽根神社境内建立)山縣豊太郎像 |
資料は像碑文を参考にしました06.08.22裕追記 |
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やまだ じっちく
山田十竹
1833-1901 |
幕末・明治の漢学者・教育家。広島藩士山田毅。名を浩、字を養吉、号が十竹。
11歳で藩学問所儒官・坂井虎山に師事、さらに金子霜山に漢学を学び、16歳で藩・句読師に抜擢される。1868(慶応4)年家督(20石)を継ぎ儒者職に任じられ、1870(明治3)年修道館と改称した学問所・寄宿寮塾の塾頭になる。1871(明治4)年廃藩置県とともに修道館は廃止になる。1876(明治9)年から東京海軍兵学校で漢学を教授する。1881(明治14)年浅野長勲は浅野学校を修道校に改組、十竹を校長に迎える。1886(明治19)年浅野家から修道校を譲渡され八丁堀の自邸に修道学校を開設。しかし、1900(明治33)年漢学のみの夜学校に後退、学校再建計画途中の1901(明治34)年死去。主著「明治小学」。
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やまもと くうがい
山本空外
1902-2001 |
浄土宗僧侶、文学博士。被爆者。広島市生まれ。東京帝国大学文学部卒業。
1927(昭和2)年旧制山形高等学校講師。1929(昭和4)年広島文理科大学創設際時助教授、文部省在外研究員として欧米に留学。1935(昭和10)年文学博士。1953(昭和28)年〜1966(昭和41)年広島大学教授。1974(昭和49)年(財)光明修養会上首就任。1986(昭和61)年(財)空外記念館設立理事長。
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ゆかわひでき
湯川 秀樹
1907-1981 |
理論物理学者。地質学者小川琢治の三男として東京生まれ。1929(昭和4)年京都帝国大学卒。
1933(昭和8)年大阪帝国大学助教授、1940(昭和15)年京都帝国大学教授、1953(昭和28)年京都大学基礎物理学研究所所長。
1932年中性子が発見され、原子核が陽子と中性子からなることが明らかになったが、陽子・中性子を結び付ける力が何かが問題になった。一方、原子核のβ崩壊の研究からニュートリノの存在を仮定することが必要になってきた。荷電粒子間に働く力を電磁場が媒介するとの類推から、陽子・中性子を結び付ける未知の力の場があるとした。これに場の量子論を適用すると、場に伴うある種の粒子があることになり、その質量は陽子と電子の質量の中間と推定された。この粒子を中間子、その場を中間子場とよび、またこの中間子が電子とニュートリノに崩壊するとして、原子核の?崩壊をも統一的に説明する可能性を与えた。1943(昭和18)年文化勲章受賞。1949(昭和24)年ノーベル物理学賞受賞。
博士は1954(昭和29)年米国の水爆実験に衝撃を受けられて、以後世界科学者会議などを通して核兵器と戦争の廃絶を訴えられつづけた事は皆が知るところですよね。
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よします とうどう
吉益 東洞
1702-1773
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漢方医。廣島市銀山町に生まる。名は為則。通称は周助。
37歳の時京都に上り、姓を畠山から吉益と改めた。古方派(こほうは:江戸時代前期、名古屋玄医提唱漢方薬術の一派)を代表する医であり、日本近代医学中興の祖。
万病一毒説を唱え、すべての病気がひとつの毒に由来するとし、この毒を制するため、強い作用をもつ峻剤を用いる攻撃的な治療を行った。この考え方を近代的で西洋医学に通じるものと評価されてもいる。
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