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あくたがわていさ
芥河貞佐
1699−1779 |
江戸時代中期の狂歌師。備中(現・岡山県)出身。本姓は丸山。名は濤賀。通称は久五兵衛。別号に桃縁斎、又生庵。
広島の芥河屋の養子となり、町大年寄をつとめる。漢学を伊藤東涯(とうがい:儒学者1670-1736)に、狂歌を永田貞柳(ていりゅう:1654‐1734)にまなび3代貞柳を名のる。蹴鞠(けまり)、茶道などにもすぐれた。編著に「狂歌千代の梯(かけはし)」など。
【辞世】死て行(しんでいく)所はをかし仏護寺の犬の小便する垣のもと
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あさの ながはる
浅野 長治
1614-1675
在任:
(1632-1675)
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(備後)三次藩初代藩主。広島浅野藩長晟の長子として山城国で生まれる。通称:又六郎(またろくろう)。官位:従五位下・因幡守。播磨赤穂藩主浅野内匠頭長矩の正室阿久里姫の父親としても知られる。
1632(寛永9)年11月2日広島浅野藩より備後国三次郡と恵蘇郡、五万石を分封され、初代藩主として(備後)三次浅野藩を立藩。11月6日に領地三次に入った。その名君ぶりは、常時水害に悩まされる河川堤防造成、街並整備、寺社の建立・保護等に見ることができます。また、三次の鵜飼、三次人形のはじまりも長治によるものです。
参勤の折、江戸で生涯を終えましたが、遺言により墓所は比熊山中腹にあります。諡号:鳳源院殿俊岳了英大居士。
関連頁 |
(三次市・鳳源寺)浅野長治像 |
09.04.19追記 |
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あさのながてる
浅野 長照
1652-1705
(1675-1691) |
三次藩二代藩主。広島浅野藩二代藩主光晟の三男(次男・長尚が長治に先立って死去し、代わりに長治の養子となる)。従五位下式部少輔。1675(延宝3)年1月養父・長治死去、3月23日家督相続。1682(天和2)年8月長兄・綱晟の次男浅野長澄を養子に迎える。1691(元禄4)年12月隠居、長澄に家督を譲る。法名は壁龍禪梭騰雲院
関連頁 |
(三次市・鳳源寺)浅野長照、浅野長経、浅野長寔合塔 |
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あさの ながずみ
浅野 長澄
1671-1718
(1691-1718)
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三次藩三代藩主。広島藩主三代浅野綱晟の次男として誕生(長男は広島藩四代藩主・浅野綱長)。母は左大臣九条道房の息女逸姫。三次藩第二代藩主浅野長照は病弱で嫡子もなかったため、養子に入る。従五位下土佐守。
1691(元禄4)年6月幕府奥詰を務めたが、12月養父長照の隠居により家督を相続、同時に奥詰を免ぜられ、藩政に集中する。1692(元禄5)年4月暇をえて国許・三次に初めて入った。1701(元禄14)年3月14日親戚・播磨赤穂藩主浅野長矩が吉良上野介義央に刃傷に及び、切腹改易となると、長矩の正室・阿久里を三次藩下屋敷に引き取った。
1718(享保3)年8月三次陣屋で死去。鳳源寺に葬られた。法名・霖應熊山天柱院。子に長経、長寔。
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あさの ながつね
浅野 長経
1709-1719
(1718-1719) |
三次藩四代藩主。三代藩主・浅野長澄の三男。三次で生誕。幼名は撫三郎、又六郎。官位官職なし。
長兄と次兄は早世したため、長澄の嗣子となる。1718(享保3)年に父が亡くなり遺領を継ぐが、この時年齢を3歳偽って1706(宝永3)年生まれとして幕府に届出。徳川吉宗にも拝謁。しかし、1719(享保4)年4月江戸で(11歳で没し嗣子が無かったため)三次藩は除封されて本家の広島藩に還付される。法名は鳳章院孝岳紹胤。
その後三次藩は、長経の弟の浅野長寔への相続が認められて再興するものの、1720(享保5)年に長寔が8歳で没したため再度除封となった。
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(三次市・鳳源寺)浅野長照、浅野長経、浅野長寔合塔 |
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あさの ながざね
浅野 長寔
1713-1720
(1719-1720) |
三次藩五代藩主。通称は主鈴(しゅれい)。官位官職なし。
兄・浅野長経の後を受け遺領を継いだが、1720(享保5)年に8歳で夭折したため、三次藩は除封され、その所領は本家である広島藩に還付される。
浅野長寔は三代藩主浅野長澄の四男として1713(正徳3)年に三次で生誕した。父の跡目は長経がついでいたが、1719(享保4)年4月11歳で没し無嗣絶家となり除封され、5月に所領は一旦は広島藩に還付された。しかし10月弟・長寔の相続が認められ三次藩は再興された。しかし、長寔は翌(享保5)年5月8歳で没し、三次藩は再び廃藩となり、再興されることは無かった。
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(三次市・鳳源寺)浅野長照、浅野長経、浅野長寔合塔 |
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あべまさひろ
阿部正弘
1819-1857 |
幕末の老中。備後福山藩主。第5代藩主・阿部正精の5男、江戸生まれ。
1836(天保7)年第6代(兄の)正寧の養子になり隠居したので、第7代藩主に就任。1837(天保8)年福山へお国入り(国元へはこの1度のみであとは江戸詰)。1845(弘化2)年9月老中首座となる。1854(嘉永7)年ペリー(彼理:1794-1858)との間に日米和親条約を結ぶなど、開国政策を推進。1855(安政2)年に洋学所、海軍伝習所を創設。
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ありすがわのみや
たるひとしんのう
有栖川宮
熾仁親王
1835-1895
(天保6−明治28) |
皇族、政治家、軍人。有栖川宮幟仁(たかひと)親王の第一王子。幼称は歓宮(よしのみや)。
国事御用掛となるが、尊攘運動を支持し、禁門の変のち失脚。王政復興後新政府の総裁となり、1868(慶応4)年戊辰戦争に東征大総督(参謀に西郷隆盛をしたがえ)、1877(明治10)年西南戦争に征討総督として出征した、同(1877)年陸軍大将。1878(明治22)年参謀総長。
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1894(明治27)年勃発の日清戦争で、熾仁親王は参謀総長として広島大本営に下るが、この地で腸チフスを発症し、神戸市垂水区舞子の有栖川宮舞子別邸で静養に入る。 |
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あんこくじえけい
安国寺恵瓊
?-1600 |
安土桃山時代の臨済宗の僧。安芸(沼田郡)の人。字(あざな)は瑶甫(ようほ)。
安芸国の竺雲等連(じくうんとうれん=禅僧)に見出され東福寺塔頭(たっちゅう)退耕庵の主となり安国寺を兼帯。1582(天正10)年豊臣秀吉の高松城攻めの和議使をつとめてから、秀吉と毛利輝元の信任をを得て寺領を与えられ、安国寺・東福寺を再興。1592(文禄元)年文禄の役には従軍僧として朝鮮に渡った。1598(慶長3)年東福寺224世の席を継ぎ、翌年退耕庵を造営し、さらに南禅寺の公帖(=禅宗五山の住持の辞令)を受ける。1600(慶長5)年関ヶ原の戦いが起こると、毛利氏とともに石田三成に応じて徳川家康と戦ったが敗れて京都・建仁寺に潜んでいるところを捕らえられ同(1600)年10月1日京都六条河原で斬首され、三条河原に梟首(きょうしゅ)された。
※住持(じゅうじ)=寺の住職。
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いいだとくろう
飯田篤老
1778-1826
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俳人。医師。広島生まれ。広島藩士。飯田利矩(としのり)、篤老(あつおい)また慎平。佐野曾蔵とも名のる。
俳諧をはじめ多賀庵に学ぶ後に京都・高台寺の高桑蘭更(らんこう:1726-1798)の門に学び、自ら一派をたて篤老園と称した。著書、編集本に「なつの夜」「合歓雨集」「温泉津(ゆのつ)日記」「厳島奉納集初〜三編」などがある。
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いのうただたか
伊能忠敬
1745-1818
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江戸中期の測量家。通称勘解由(かげゆ)。号東河。上総国山辺郡小関村(千葉県九十九里町)に生まれる。母の死後、父の実家であった武射郡小堤の神保家に移り、18歳で下総国佐原の伊能家へ婿養子に入る。
酒造業を再興し、米の仲買いなどで産を築き、名主や村方後見として郷土のために尽くした。若いときから学問を好み、数学、地理、天文書に親しみ、1795(寛政7)年50歳の時隠居して江戸の深川黒江町(現・門前仲町)に居を構え、
幕府天文方高橋至時(当時32歳)に師事し天文学を学んだ。当時、緯度一度の里程数が定まっておらず、忠敬は長い南北距離の測量を企て、蝦夷地南東沿岸の測量を出願して官許を得た。1800(寛政12)年期待したとおりの成果を収めたが、その後全国の測量へと発展し、1816(文化13)年に終了するまでに、10次にわたり、延べ旅行日数3736日、陸上測量距離4万3708km
、方位測定回数15万回という大事業となった。細心な注意と測定点を十分に多く設ける厳密性を図った、根気と努力の勝利といえよう。忠敬の得た子午線1度の長さは28里2分(110.75km)で、現代の測定値と約1000分の1の誤差しかない。
伊能忠敬は第8回測量までの出発に当たっては、必ず江戸深川の富岡八幡に参詣して測量に旅立ったそうです。
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日本中を測量した人当然廣島にも・・・
1805(文化2)年からの第5次測量の際、1806年3月頃藝州の沿岸部測量を行っています、また西国街道の測量は第7次測量、1811(文化8)年の際に行われ、第8次測量(調査期間がもっともながかった)の際に藝州の内陸部も調査しているそうです。
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いのうぶだゆう
稲生武太夫
1735-1803 |
江戸時代中期三次藩士。幼名・平太郎。
平太郎16歳のとき、友人と肝試しに真夜中の比熊山へ登ったところ、平太郎の屋敷に旧暦7月三十日間にわたって毎晩のようにお化けが姿を変えて出てき脅かしたが平太郎少しもひるむ事がなかったので、三界の魔王もさすがに降参し木槌を与えたという話で、この話が「稲生物怪録」や「稲生物怪録絵巻」などとして伝えられ、日本の代表的な妖怪物語の一つになっています。三人扶の侍として浅野藩に仕え、最終的には二百石となり(三次)比熊山麓に屋敷を賜りました。
※資料によっては1732-1800というものもあります。
三次浅野藩は、1632(寛永9)年浅野長治ではじまり1720(享保5)年五代・浅野長寔没で廃藩
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うえだじげやす
上田重安
号:宗箇(そうこ)
1563-1650 |
武将、茶人。尾張国生まれ。通称は佐太郎、主水正。号は宗箇、是斎。
丹羽長秀(1535-1585)、明智光秀(1528-1582)に仕えた後、豊臣秀吉(1536-1598)につかえる。関が原の戦い(石田三成方についた)ののち(阿波の)蜂須賀家政(1558-1639)、ついで(紀伊の)浅野幸長(よしなが:1576-1613)にまねかれる。その後浅野家の安芸移封に伴い、広島の地に赴き、佐伯郡小方に1万2000石を与えられた。また、藩主別邸の縮景園等を築いた。
茶道を千利休(1522-1591)、古田織部(1543★-1615)、小堀遠州(1579-1647)にまなぶ。徳島城内庭園や紀伊粉河寺(コカワジ)の庭園などもきずいた。
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うえだこんばい
植田艮背
1651-1735 |
江戸初期から中期の儒者。京都出身。本姓は菅原、名は成章、字は玄節、別号は動山、因斎、淡々子。
山崎闇斎(1619★-1682儒者、神道家))にまなび、1698(元禄11)年安芸広島藩につかえる。師の説を忠実にとなえたことで知られ、闇斎の「垂加草全集」を編集した。著作に「朱学体要」など。
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うめぞのかいあん
梅園介庵
1815-1888 |
広島藩の学者、明治前期の教育者。名は昭卿。字は造甫。通称:順治郎、のち順造、晩年は梅叟と称した。
16歳で広島藩学問所の句読師。1862(文久2)年藩儒・丈二郎没後梅園家を継ぐ。
朱子学、経学に秀で藩儒となるが、国学、天文測量術、武芸、軍学も秀でていた。1865(慶応元)年江戸詰藩邸学館(講学所)を監督、1869(明治2)年師員。翌(1870)年三原学校監督。廃藩後、修道学校教授(しかし旧藩士の道徳の退廃を憂い教育に専念)1885明治18)年中島本町に漢学学校「麗沢学校」開校(子弟の教育にあたる)。
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えうん
慧雲
1730-1782 |
浄土真宗の学僧。広島城下塩屋町(現・中区大手町)専勝寺(二男)に生れる。2歳で報専坊の養子となる。字:子潤。号:洞水、東岳、甘露、白道。諱:深諦院。
17歳で上京、本願寺派学僧・僧撲門下。師没後報専坊に帰り私塾「甘露社」を開く。履善、大瀛、僧叡、雲幢など優れた弟子を輩出、後にこの学僧山脈は「芸轍(げいてつ)」という学派名で呼ばれた。また、安芸国の民衆の教化に努力し、各集落単位に「お寄り講」を設けさせた。宗義に純粋なあまり、門徒に神棚を祭らせなかったので「神棚降ろしの報専坊」と呼ばれ、死後修験者によって放火されたが、慧雲は「安芸門徒」の精神面を開花させた第一の立役者と云われています。
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おかみんざん
(おか びんざん)
岡岷山
1734-1806 |
広島藩士、日本画家。名は、煥(かん)。字(あざな)は君章。通称は、利源太(墓石に刻まれています)。
幼くして、広島藩の絵師・勝田幽渓に学び、のち宋紫石(そうしせき:1715-1786)の門に入りました。中国清代の画家・沈南蘋(しんなんびん:1682-
?)風の密画をよくし、藩主・浅野重晟(1743-1814:在職1763-1799)に仕え画道によって侍士に進みました。厳島神社に「松竹梅図」額がのこされています。
1797(寛政9)年芸北山県郡都志見・名瀑の駒ヶ瀧を見物する旅に出て、道中記「都志見往来日記」をしたため史跡・風物に独自の解釈を著し、さらに当時の各地の風景を「都志見往来諸勝図」に描いています。
関連頁 |
(心行寺)岡岷山の墓 |
12.06.12編集 |
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かがわ なんぴん
香川南浜
1734-1792 |
広島藩儒者。折衷学者。名はジン臣、字は爾公または忠夫。通称:修蔵。南濱(南浜)または蕉雨堂と号す。
幼少期より学問を好み、博覧強記で、経史諸子百家はもとより国書にも通じていました。はじめ程朱学を学び、京都遊学後は古訓をとなえ、訓詁・音義を正し、経済実学を持って人材を育成しました。1778(安永7)年再び上京。のち伊予松山藩主から招かれましたが、弟子に引き留められ禄仕を断念して大手町に家塾・修業堂を開きました。1781(天明元)年三十人扶持で広島藩儒に登用され、翌(天明2)年開設された広島藩学問所で古学を講じました。1785(天明5)年藩の学制が程朱子に統一されたため、常勤を止められ、1789(寛政元)年の学問所師弟分けの後は藩主浅野重晟に賜わった屋敷に再び修業堂を開き古学教育を行った。著書は二十数種あったといわれますが、ある日、仁保の海岸でことごとく焼き棄てたそうで、広島藩の程朱学に統一された教育方針に抗議する意味があったのではと云われています。現存の著述は「秋長夜話」「蕉雨堂酔談」の2つの随筆のみだそうです。
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かとうふらく
加藤缶楽
1673-1738
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藝州藩海田の庄屋。名は有益。
京都の山崎闇斎(1618-1682)の高弟子で藩儒の植田艮背(1651-1735)から神儒学を学び、特に朱子社倉法を研究して「社倉攷意(しゃそうこうい)」を著すなど、役務のかたわら終生学問に打ち込みました。
加藤缶楽の子十千{じゅうせん、名は友徳(ゆうとく)}は藩儒に登用され、延享4(1747)年矢野の香川将監(しょうげん)らと社倉法を実施に移し、その後の救恤(きゅうじつ)対策として全藩内で実施されました。
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かにさいぞう
可児才蔵
1553※-1613
(1554-1613) |
(可兒才蔵藤原吉長)、武将、1553(天文22)年尾張国葉栗郡楽典郷に生れる。
1568(永禄11)年15歳の時前田利家の老臣奥村助左衛門が烏帽子親となり加冠して松田太郎左衛門に仕えた。後に福島正則の臣となり(1600年=慶長5年正則が)芸州広島藩主に移封の時来住して藩の槍術指南となり併せて軍学を講じた。特に槍術は世に吉長十字槍といわれ又の名を槍の才蔵とたたえられた(関ヶ原合戦の時は常に鎧の背に笹を挿して居て敵の首級をあげる毎に笹を挿して目標にしたので徳川家康から笹の才蔵の呼名を貰う)。豪勇の一面智徳を兼ね備え信仰に厚く恭倹実直であった。晩年は才入と号し仏門に入り済生を脳病平癒の医方に専念したと伝えられる。(吾れ死せばこの地に埋葬して墓石を建てよ死後三日内に墓背に竹が生ずるであろう首より上を病む者はその竹の葉により利益を願えば必ず治癒を得さしめん)と遺言して1613(慶長18)年11月24日60歳で亡くなる。
関連頁 |
才蔵寺 |
※資料は才蔵寺境内の碑・説明文を参考にしました |
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かんちゃざん
菅茶山
1748-1827 |
江戸後期の朱子学者、漢詩人。本姓菅波(すがなみ)。名は晋師(ときのり)。字は禮卿(れいけい)。通称は太中。号が茶山。備後国安那郡川北村出身。農業・酒造業を営む菅波樗平(ちょへい)の子。
1766(明和3)年19歳の時、京都の那波魯堂(なばろどう:1727-1789)に朱子学を学び、1781(天明元)年郷里で私塾・黄葉夕陽村舎を開きました。1796(寛政8)年福山藩は藩立の郷塾とし、(公式には)神辺学問所と呼ばれましたが、一般には廉塾と称せられました。茶山は朱子学者で詩文に卓越し、藩史福山志料の編集を行いました。当時、山陽・南海の諸国から来て学ぶ者が多く、頼山陽(1780-1832)も門下生のひとりでした。今日、講堂・寮舎が茶山の居宅とともによく旧観を維持し郷塾としては数少ない遺例だそうです。京都の那波魯堂に程朱学を学び、神写実を旨とした清新な詩風で知られ、ことに田園詩が名高い。著「筆のすさび」「黄葉夕陽村舎詩」など。
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きはらそうたく
木原桑宅
1816-1881 |
広島藩儒医。諱は籍之。字は君茅。号は桑宅、晩年は燃白老人と号す。通称は慎斎、後、慎一郎。
はじめ医者として広島藩に仕える。1862(文久2)年儒官となる、学問所教授、供頭添次席。
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くわばら うのすけ
桑原卯之助
1724-1783 |
沼田郡南下安村の大工。八木用水路(やぎようすいろ)を完成させた江戸時代中期の人。
太田川の下流、安芸国沼田郡八木村(現:広島市安佐南区八木)から、緑井、古市、祇園、新庄、三篠と、村々の水田を湿し、その水路は10数Kmにも及びます。この用水路は「八木用水」「定用水」(常用水)と名付けられ、取水は、可部(広島市安佐北区)の市街を望む対岸です。明和4(1767)年卯之助が、八木村の十歩一(じゅうぶいち)からの取水を思い立ち、灌漑地域となる村々の土地の高低や、既存の水路などを充分に検討して、明和5(1768)年4月4日着工、幅2m、長さ16km、9ヶ村にわたる水田230町歩(約230ha)への水路を、同(明和5)年4月28日に完成させました。この水路の完成で、新田の開発も行われ、収穫高もおおいに上昇したそうです。
現在もなお安佐南区の市街のあちこちに流れを止めることのない用水路なのです。
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こうのしょうせき
河野小石
1823-1895 |
幕末・維新期の広島藩士。名は徴。字は文献。通称は金蔵、小石または視庵。
12歳の時頼聿庵に入門、1863(文久3)年に藩儒となる。1869(明治2)年8月浅野長勲の侍講となる。
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ごとうしょうけん
後藤松軒 1803-1864 |
広島藩医。松軒、史知、漁江と号す。藩医・松aの長子。
18歳の時長崎・吉雄塾に入り蘭学、医術を学ぶ、この時高野長英(1804-1850)とも親交を重ねる。1849(嘉永2)年3月長英が幕府の手を逃れ、宇和島から広島へ来た時当時・沼田郡新庄村の藩の薬草園(日渉園神農祠裏)に約半月間かくまった。また、同(1849)年9月三宅春齢が佐渡の医者・長野秋甫の牛痘をうけて広島へ普及を図った時も普及結社の加盟し助言を与え2ヶ月間で161人に種痘を行った。しかし藩はこの医事行為を禁止した。これらのことで、漢方医から嫌われ讒言で藩医を剥奪されたが、1856(安政3)年復職する。
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さかい こざん
阪井虎山
(坂井虎山)
1798−1850
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江戸後期儒学者。広島に生まれる。東派(儒学者・とうは)の子。名は公実、諱は華。通称・百太郎、また臥虎山人、虎山などとと号す。
東派、頼春水(儒学者・頼山陽の父:1746-1816)に学ぶ。1825(文政8)年父と並んで藩学教授に抜擢される。1837(天保8)年江戸に遊学、古賀ドウ(イ同)庵、松崎慊堂(1771-1844)、佐藤一斎(1772−1859)らと交流。史論・文章にたけ、家塾百千堂を興す。著書「杞憂策」「論語講義」等。
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だいえい
大瀛
1759−1804 |
浄土真宗の学僧。安芸国山県郡中筒賀村生れ俗姓は森。名は廓亮。号はセイ園、天城、瑞華など。12歳で報専坊の慧雲に師事。18歳慧雲に従い上京京都西本願寺学林で真宗学をまなぶ。その後10数年各地で仏典講釈をして回る。のち備後国甲山の正満寺、安芸国可部の勝円寺などに住し数年後隠居。広島城西楠木で私塾「せい*園舎」を開き、曇龍、道命、道振、普厳などの名だたる弟子を養成した。新義派の智洞の説「三業帰命説」を批判する古義派を代表して、文化元(1804)年江戸で智洞と対決したが,勝利をみることなく同(1804)年5月4日没した。著作に「浄土真宗金剛へい」「真宗安心十諭」など。
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*『くさ冠に仍』という字ですが、PCでは?になりますので平仮名で書きました。 |
10.09.07追記 |
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せいしん
誓真
1742-1800
(寛保2-寛政12) |
江戸中期から後期の僧。俗姓は村上。伊豫(現在の愛媛県)の人。
安藝・廣島の商人であったが、天明のころ厳島に渡り光明院で修行し僧となる。神泉寺(現在は廃寺だそうです)の番僧となり、竹林庵に住んでいた。種々の公益事業を行ったことで知られている。飲料水の不足に苦しむ島民のため、各所に井戸を掘った。それらは今日『誓真釣井』とよばれている。また石段を築き、道路を石だたみにした。
宮島名産の『飯杓子』も島民の生業を与えるため、誓真さんが弁財天の琵琶の形から着想して島民に教えたものという。
1800(寛政12)年8月6日死去、59歳。
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たいらのきよもり
平清盛
1118-1181
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平安末期の武将。忠盛の長子。実父は白河法皇(∵母は祇園の女御の妹であって院中に召され懐妊しのちに忠盛にくだされた)。通称平大相国、法名浄海。太政大臣。 平氏の棟梁。
1129(大治4)年従五位下左兵衛佐、1146(久安2)年累進して正五位下、安芸守(宮島の厳島明神を信仰するようになり、父とともに西国への勢力を拡大)1947祇園社の間僧衆と部下の武士との乱闘事件に関係して贖(しょく)銅30斤に処せられた。1153(仁平3)年忠盛の死とともに平氏武士団の総帥となった。1156(保元1)年保元の乱には源義朝とともに後白河天皇方にたち、功によって播磨守となりつぎに大宰大弐となり、信西(藤原通憲)と結び、義朝と結ぶ藤原信頼と対立。
1159(平治1)年平治の乱で信西が倒されてからは、王朝国家の軍事力を一門で握り、以後官職は破格の勢いで進んだ。1167(仁安2)年ついに内大臣から左右大臣を経ずに従一位太政大臣となり平氏政権を樹立した。この間、妻時子の妹滋子が後白河院の後宮に入って、1161年憲仁親王(高倉天皇)を生み、その中宮に娘の徳子(建礼門院)をおくり天皇家との婚姻政策を図ってついに安徳天皇の外戚となり、巨大な勢力を築いた。9人の娘のうち長女は藤原信西の子桜町中納言成範に、盛子は関白藤原忠通の子基実に、その他近衛基通、冷泉大納言隆房修理大夫信隆らに嫁がせ摂関家との協調をはかり、さらに天台座主(ざす)明雲とも通じて、宮廷にその勢力を扶植した。
一門による官職の独占、30ヶ国の知行国、500余ヶ荘の荘園、兵庫(大輪田泊)と鎮西を根拠にした日宋貿易などを政治的・経済的基盤として六波羅政権を樹立した、しかし太政大臣に就任してほどなく病を得て辞任した。翌1168(仁安3)年出家して法号を清蓮ついで静海と称した。
1177(治承1)年鹿ヵ谷の事件を切り抜けたのち、1179(治承3)年後白河法皇を鳥羽殿に幽閉してクーデターを行ったが、以後平氏追討の動きが活発となり、1180年源頼政が法皇の第2子以仁王を奉じて挙兵すると寺院勢力もこれに呼応した。反乱を鎮圧するとともに福原遷都を断行しが、貴族階級の不満をつのらせ諸国の源氏もあいついで決起した。同年11月京都に遷都し、12月ついに法皇の院政を請い、自らの政権を放棄するとともに軍事的退勢を一挙回復しようとしたが1181(養和1)年閏2月4日64歳、熱病に倒れ世を去った。
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たかの ちょうえい
高野長英
1804-1850 |
蘭学者・蘭医。名は譲、のち長英。号は驚夢山人・幼夢山人など。陸奥国仙台藩水沢留守家家臣後藤実慶の三男。9才で父を亡くし母実家b、叔父高野玄斎(医者)の養子となる。
吉田長叔に西洋医学を学び、長崎に行きシーボルト(長崎オランダ商館付医師:1796-1866)の鳴滝塾に入り、のち江戸で開業。渡辺崋山(洋学者・南画家、1793-1841)らと尚歯会を組織。「夢物語」で幕政を批判し投獄されたが脱走。沢三伯と変名し兵書などの翻訳に携わった。のち隠れ家を襲われて自殺。
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たけだのぶかつ
武田信賢
1420-1471
(応永27-文明3) |
室町前期の武将。武田信繁の次男。文安四年に大膳大夫
1440(永享12)年兄信栄と共に一色義貫を討つ、兄が若狭守護拝命直後に没したため、家督継承。1444(文安元)年武田氏は国内寺社本所領代官職の知行を幕府から認められ、これによって半済に加えて本所方にまで支配権を及ぼすことが可能となり、武田氏の荘園支配は大きく進展することになる。1467(応仁元)年応仁の乱が勃発、武田氏は東軍(細川陣営)に属したが、各地の西軍(山名方)方分国で細川与党が行動をおこし、若狭では逆に山名方の一色氏牢人が蜂起、守護・信賢は一旦下国放逐後上洛、武田勢は西陣の大手南にあたる実相院に配され、西軍と正面から激突した。丹後守護一色義直は西軍に属したため、1469(文明元)年丹後守護職が武田氏に与えられ、武田信賢の部将逸見・粟屋らが、細川氏支援のもと丹後に討ち入った。1471(文明3)年6月2日病没。法名は大通寺殿大人宗武また光徳寺祐教教山。家督は弟国信が継いだ。
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とくがわいえやす
徳川家康
1542-1616 |
江戸幕府初代将軍(1603-1605)。
三河岡崎城主松平広忠の長男。幼名竹千代、のち元信、元康、家康と改めた。はじめ今川義元、のち織田信長と結び東海に勢力を拡大、信長とともに甲斐武田氏を滅ぼす。豊臣秀吉の天下統一後はこれに協力、関八州を与えられ、1590(天正18)年江戸入府。関ヶ原の戦勝を経て1603(慶長8)年征夷大将軍となり、江戸に開幕。将軍職を譲った後も大御所として実権を握り、大坂冬・夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、統一を完成した。
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とくがわいえみつ
徳川家光
1604-1651 |
江戸幕府第三代将軍(1623-1651)。
秀忠の二男。幼名竹千代。諸法度の制定、参勤交代など諸制度を整備、キリシタンを弾圧して鎖国を断行、以後二百年余にわたる幕府の支配体制を確立した。
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とよとみひでよし
豊臣秀吉
1536-1598 |
安土桃山時代の武将。尾張中村の人。織田信長の足軽木下弥右衛門の子。幼名日吉丸。初名木下藤吉郎。のち羽柴秀吉。織田信長に仕え、軍功によって重用され、筑前守となる。本能寺の変後、明智光秀を討ち、四国・九州・関東・奥羽を征して1590(天正18)年天下を統一。この間、1585(天正13)年関白、翌(1586)年豊臣姓を賜って太政大臣となり、1591(天正19)年関白を養子秀次に譲り太閤と称した。また、検地・刀狩りを実施、兵農の分離を徹底し、幕藩体制に至る基礎を築いた。文禄・慶長の役で朝鮮に出兵、戦果があがらないまま、伏見城で病没。
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はやし じりゅう
林為龍
?-1778 |
江戸時代広島藩の能書家、「広島の三筆」の一人。家老上田氏の家臣。
はじめ江戸に出て林龍について六朝の王羲之(307-365)の書風を習いその奥技をきわめました。
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はらそうえもん
原惣右衛門
1648-1703
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江戸時代前期の武士。名は元辰(もととき)。播磨(兵庫県)赤穂藩士。四十七士のひとり。
藩主浅野長矩(ながのり)の切腹処分を江戸から第2陣使者として国元赤穂にはせ知らせる。大石良雄の補佐役をつとめ、仇討ちをはたした。1703(元禄16)年2月4日切腹。変名は和田元真、前田善蔵。
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ひらやまなおずみ
平山尚住
?−1745 |
安芸広島藩士。名、尚住。通称、角左衛門。
目付役、先手物頭役などをつとめる。藩主浅野吉長(1681-1752)にみとめられ元文5(1740)年尾道町奉行となる。西廻り航路の開通で来船がおおくなった尾道港の改修・埋立工事をすすめ,翌(1741)年完成。約30aの埋立地を町方商人にはらいさげた。一説に明和5(1768)年12月死去とも。
現代においては、尾道市の名誉市民になっています。
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ほうじょううじなお
北条氏直
1562-1591 |
戦国時代の武将。氏政の子。母は武田信玄の娘(黄梅院)。
1580(天正8)年家督を継承後北条氏五代当主。豊臣秀吉(1536-1598)の小田原攻略の時、籠城数ヵ月後に開城、高野山に籠居したが一年後に病死した。
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ほしのりょうえつ
星野良悦
1754-1802 |
広島堺町の町医者。範寧。
郊外に薬草採取に出かけ草叢に髑髏(どくろ)を見つけ下顎脱臼の整復術を考案した。
1791(寛政3)年4月に2体の刑死体の下げ渡しを受け、1体を蒸した後に軟部組織を除去して真骨を得て、細工職人・原田孝次に木製人骨を作らせ、翌1792年完成した。これはわが国で最初の木骨(舌骨、耳小骨を除く全骨が揃っている)であった。1798(寛政10)年木骨を江戸に持参し、杉田玄白(蘭学医1733-1817)、大槻玄沢(蘭学者1757-1827)らが絶賛して「身幹儀」と命名した。このとき大槻は「解体新書」の不備を修正した「重訂解体新書」の出版準備中で内容を星野に確認した。1800(寛政12)年2体目の木骨を作成し幕府の医学館に献上し、30両を下賜された。
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資料は医学資料館館長・片岡勝子さん著「身幹儀について」他を参考にしました。 |
関連頁 |
(広島大学医学資料館)星野木骨のレプリカ |
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ほりきょうあん
堀杏庵
1585-1642 |
江戸初期の儒学者、儒医。近江国安土の人。名は正意、字は敬夫、通称は与十郎、杏庵、杏隠と号す。
儒学を藤原惺窩(せいか:儒学者:1561-1619)、医を曲直瀬(まなせ)正純に学ぶ。1611(慶長16)年和歌山藩(浅野幸長)の侍医、長晟の芸備移封に従い広島に住む。1622(元和8)年長晟の参勤に随行江戸にある時尾張藩(徳川義直)の招きを断れず仕え、法眼に進む。晩年、幕命により江戸に出て大名諸家の系図を編纂。長男:立庵は広島藩に仕えた。
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ほいんいんぼう
しゅうさく
本因坊秀策
1829-1862
(文政12-文久2) |
囲碁棋士。桑原輪三と母カメの次男として、1892年(江戸時代後期)に備後國今の因島市外浦町に生まれた。幼名を虎次郎。
5歳で母に囲碁を教えられ、6歳のときには近郷に敵が無く、7歳のとき三原城主浅野公と対局してその棋力を認められ、竹原の宝泉寺住職葆真和尚に師事した。その技の巧妙さに人々は驚き神童といったそうです。 9歳の冬に浅野公のすすめで江戸へ行き、本因坊家に入り本因坊丈和の弟子になる。11歳で初段の免許を得て翌年帰国、浅野公より5人扶持を賜り、15歳で4段の免許を得、名を秀策と改めた。17歳のときには12人扶持に増禄され、18歳の時大阪で幻庵因硯と対局し、世に言う「耳赤ミミアカの妙手」(=因碩が形勢の良かった碁を秀策の打った妙手で形勢が一変し、動揺した因碩の耳が赤くなった)で結局秀策の3目勝ちとなった、囲碁界では有名な話だそうです。20歳で第14世本因坊跡目になり、丈和の娘花と結婚。 21歳で御城碁に初出仕した、この時から13年間御城碁において19連勝で負けることがなかった。 しかし、34歳という若さで他界した(この時代流行したコレラでといわれているようです)。
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ほんじょう
しげまさ
本庄重政
本荘重政
1606-1676
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江戸前期の兵法家。土木事業家。尾張生れ。字:憐情(れんじょう)、通称:杢左衛門。父重紹は佐々成政(?-1588)、水野勝成(1564-1651:福山藩初代藩主1619-1639)に仕えました。
岡山の池田光政(1609-1682)に仕えたのち浪人。承応3(1654)年10歳の長子杢を福山藩主水野氏に出仕させ、その後見人として500石を受けました。4代藩主・水野勝種(1661-1697)の命で、領内各地の新田開発にたずさわり、万治3(1660)年神村・柳津(福山市)沖の干拓に着手,塩浜39町余を開き,商人を招いて街を設け。寛文7(1667)年に完成し、松永と命名しました。
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みなもとのよりまさ
源頼政
1104-1180 |
平安末期の武将。摂津多田源氏の源仲政(母、藤原友実の娘)の長男として生まれる従三位に進み出家して源三位(げんざんみ)入道と称された。
平治の乱では、平清盛につく。1180(治承4)年以仁王(もちひとおう)を奉じて平氏追討のために挙兵したが宇治で敗死。宮中の鵺(ぬえ)退治などの武勇にすぐれ、和歌にも長じたことから、後世、謡曲・浄瑠璃などに脚色された。家集「源三位頼政卿集」
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みなもとののりより
源範頼
1156?-1193 |
鎌倉初期の武将。義朝の六男。
遠江(とおつおうみ)蒲御厨(かばのみくりや)に成長したので蒲の冠者ともいう。
弟義経とともに源義仲を近江粟津に殺し、平家を一ノ谷・壇ノ浦に破った。義経没落後、頼朝にとりいったが伊豆修善寺で殺された。
※福蔵寺に廟が建立されています、あくまでも伝説でしょうが九州に逃げる途中?広島で遭難にあい死亡したと。
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みやけ しゅんれい
三宅春齢
1814-1859 |
江戸後期の医師。芸藩医・三宅西涯の二男として猿楽町に生まれる。諱は光均。字:叔平。幼名:富次郎。通称:春齢。号が董庵(とうあん)。別号として草庵、八千代園など、後に春齢を諱とし、字を八千と改めた。
1849(嘉永2)年広島(横川村)で牛痘を試み成功。禁制・迫害を受けつつも種苗培養し、その種痘者は1万人におよんだ。また当時奇病扱いされていた子宮外妊娠をめぐり従来の漢方医に対して洋学の優位性を実証した。
頼聿庵(頼山陽の子:1801-1856)に師事し20編の随想を著している。
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もうりもとなり
毛利元就
1497-1571 |
戦国時代の武将。毛利弘元の次男。はじめ安芸猿掛城を与えられた、1516(永正13)年兄・興元没後家督・幸松丸の後見。1523(大永2)年幸松丸没後、家督を掌握。
1540(天文9)年尼子晴久の安芸進攻には領民を城内に入れて籠城、大内勢の後方支援で反撃、これを破る。1542(天文11)年から出雲遠征では大内義隆に従って出雲国に進攻、しかし大敗。1546(天文15)年家督を毛利隆元に譲る。
1551(天文20)年大内義隆への陶隆房(晴賢)謀叛には陶方に協力。1555(天文24)年厳島合戦で陶軍を地の利で勝る厳島に誘き出して大勝、晴賢を討取る。1557(弘治3)年大内義長を討って周防・長門2国を平定。この(弘治3)年三子を集めていわゆる「三矢の訓」を垂れたとされています。
1562(永禄5)年足利義輝の命で大友義鎮(宗麟)と和睦。西の脅威が無くなって、尼子氏攻略に本格的着手、その翌(永禄6)年隆元を亡くすが、1566(永禄9)年月山富田城を落とし尼子義久を降伏させ、中国地方をほぼ平定した。1571(元亀2)年郡山城に没。家督は嫡孫輝元が継承。
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もうりたかもと
毛利 隆元
1523-1563 |
戦国時代の武将。毛利元就の長男。15歳の時大内義隆の人質として山口へ赴く。
1542(天文11)年出雲遠征。1546(天文15)年家督を譲られる。1555(天文24)年厳島合戦など各地を転戦。1560(永禄3)年安芸守護、1562(永禄5)年備中・長門などの守護を兼ねる。1563(永禄6)年、出雲攻略の途上、和智誠春の饗応後に安芸佐々部で急死。
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ようぜんいん
瑤泉院 1669-1714 |
1669(寛文9)年☆三次藩主浅野長治の娘(三女)として、三次に生まれる。母は長治の側室・お石の方。名は阿久利(あぐり:阿久里、阿久理・とも表記)。夫・長矩の死後、瑤泉院と称す。
1676(延宝4)年7歳の時、幕府から赤穂藩主浅野長矩との縁組を許され、江戸へ向けて三次を出立、江戸三次藩今井下屋敷に入る。1683(天和3)年14歳のとき、16歳の長矩と結婚。美貌と天賦の才媛により琴瑟相和(きんしつあいわ)し正室の勤めを果たすが子宝に恵まれないまま、1701(元禄14)年32歳のときに江戸城松の廊下で夫の刃傷(にんじょう)事件が起こり、屋敷を移って髪を落とし、名を寿昌院、後に瑤泉院の院号で余生を長矩並びに義士の菩提を弔い、義士の遺族に心を砕きその処遇に尽力した。1714(正徳4)年45歳三次浅野家下屋敷で死去。
没日から10日間三次では鳴物高声停止令(娯楽などをつつしむ)が出され、町ぐるみで喪に服したと伝えられているそうです。夫・長矩が眠る泉岳寺に葬られまた遺髪は故郷三次の父・長治建立の鳳源寺境内に安置された。諡号:瑤泉院殿良瑩正澄大姉(ようぜんいんでんりょうえいしょうちょうだいし)。
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ウィキペディアでは1674(延宝2)年生まれとしていますが、この頁では三次市作成の三次出身者資料を参考にして編集しました |
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よします とうどう
吉益東洞
1702-1773
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漢方医(古方派を代表する医者)。廣島市銀山町に生まる。名は為則。通称は周助。
その人となり剛毅にして容貌魁偉眼光炯々として人を射たといわる。親試實験を以て証せられた自信により陰陽五行五運六氣等の憶説は悉く迷妄なりと断じ「萬病一幸(すべての病気がひとつの毒に由来する)」の説とその術をもって天下の醫を匡した。貧困の極その生命危殆に瀕するも疾醫の道を志すこと堅かりしというその著「類聚方(るいじゅほう)」「方極(ほうきょく)」「方機」「醫事域間」「醫断」「薬徴(やくちょう)」等何れも當時の醫學界を震撼せしめた。
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らいしゅんすい
頼春水
1746-1816 |
広島藩儒。安芸国竹原出身。諱は惟完、字は千秋(また伯栗)、通称は弥太郎。頼山陽の父。妻は静子。
21歳〜36歳を大坂の町儒者として活躍、1781(天明元)年藩儒に登用され帰国、芸州藩学の程朱学(ていしゅがく)による再興につとめる。1783(天明3)年-1793(寛政5)年の帰広する以外はほとんど江戸詰。著「学統弁」「芸備孝義伝」など。
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らいしずこ
頼静子
1760-1843 |
江戸時代中・後期の歌人。大坂出身。名は静(静子)。号は梅〈風思〉ばいし。飯岡義斎(儒医名:篠田コ安)の長女。
1779(安永8)年春水に嫁ぐ、3男1女を生んだが長男:山陽、長女のほかは早死。春水の芸藩仕官で1782(天明2)年以後は広島に住んだ。1784(天明4)年から1843(天保14)年までの日記が伝存。文政年間に四たび山陽に招かれ上方で遊んだことは有名。小沢盧庵(ろあん、歌人1723-1801)に和歌をまなんだ。著作に「遊洛記」など。
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らいさんよう
頼山陽
1780-1832 |
江戸後期の儒学者・歴史家・漢詩人・書家。大坂出身。名は襄(のぼる)、字は子成、通称は久(ひさ)太郎、別号を三十六峰外史。大坂江戸堀北一丁目で春水の長男として出生。
6歳までおおむね大坂で育ち、以後広島に移る(14歳まで父・春水は江戸詰めでほとんど不在)。
1797(寛政9)年叔父・杏坪に従い江戸に遊学、尾藤二洲(儒学者:1747-1813)
らに学び翌(1798)年帰国。1799(寛政11)年御園道英の娘・淳を娶り長男(聿庵)をもうける。性豪放にして遊蕩に日を送り、1800(寛政12)年父江戸詰中広島を出奔、直ちに京都から連れ戻され、脱藩罪に問われ廃嫡、妻とも別れた。以後、自邸内に監禁(読書と著述は進み後年の史学の基礎をつくったと云われている)。1805(文化2)年赦免、身分定まらず心身とも不安定な時期を過ごす。1809(文化6)年備後神辺の菅茶山が開いていた廉塾の都講(塾頭)に就任、満足できず1811(文化8)年上京。1818(文政元)年〜1819年九州旅行、多くの詩をつくる。京都の書斎「山紫水明処」を営み、文人墨客と交わり、すぐれた詩文や書を遺す。1826(文政9)年「日本外史」22巻を完成、翌(1827)年松平定信(白河藩主:1759-1829)に献上。日本外史は幕末期における歴史観、尊攘派に大きな影響を与えた。他に著「日本政記」「日本楽府」「山陽詩鈔」など。
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らいいつあん
頼聿庵
1801-1856 |
江戸時代後期の儒者。頼山陽の長男。安芸広島藩士。名は元協。字は承緒。通称は余一。別号に鶴年、春嶂。
父が脱藩したため祖父頼春水の跡をつぐ。1818(文政元)年藩の学問所に出仕、1831(天保2)年〜1883(天保4)年江戸詰、東行の途中山陽と会ったのが父子永の別れとなった。1841(天保12)年奥詰。1850(嘉永3)年隠居、家督を嗣子・誠軒に譲った。山陽の著作出版につとめる。書にすぐれた。遺作に「聿庵詩稿」など。
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らいきょうへい
頼杏坪
1756-1834 |
江戸中期〜後期の儒学者。安芸広島藩士。頼春水、春風の弟。名は惟柔ただなご。通称万四郎。別号に春草、杏翁など。
春水にしたがい江戸服部栗斎(りつさい、儒者1736-1800)にまなぶ。天明5年藩の儒官となり、藩主浅野斉賢の侍講などをへて三次町奉行などをつとめ民政につくす。「芸備孝義伝」「芸藩通志」など藩の編集事業にもあたった。著作に「原古編」「春草堂詩鈔」など。
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